トリックを暴け!長南年恵~超能力の証明と謎の死因~

超能力者…そんな者はいないと言い張る人間もいます。

実際の超能力を見てないから、判断できないという人が多いでしょう。

このレポートでは、明治時代に存在していた長南年恵(ちょうなんとしえ)という有名な女性超能力者について紹介したいと思います。

 

長南年恵

長南年恵は1863年12月6日(文久3年10月26日)現在の山形県鶴岡市に生まれました。

本名は漢字が違うようで鶴岡市戸籍研究によると「登志恵」という字だそうです。

また、「おさなみとしえ」で通っていますが、「ちょうなん」と読むのが正しいようです。

彼女の能力は「物品引き寄せ」、つまりその場を動かずに、何らかの物質を引き寄せてくる能力だったのです。

その中でも、最も得意だったのは、空のビンに一瞬のうちに空中から水分を集めて、ビンを水で満タンにするという能力でした。

20歳頃までの彼女の記録は不明ですが、1874年(明治7年)に地元に小学校が開校したけれども入学はできなかったそうです。

女性だからということもあったのでしょうが、子守奉公をしているうちに次第に予言のような言葉を口走るようになったそうです。

神がかり状態になったと思われます。

その噂を聞きつけた住民の話し相手になっているうちに、奉公先からいっそ巫女になって生業にしたらどうだとアドバイスされたという説があります。

きっと人が集まりすぎて、子守をする暇がなくなってしまったのでないかと思います。

そのアドバイスに従い、年恵は鶴岡市内で「行屋」を開きました。

「行」とは修業によって霊験を得た者のことで、彼女の預言を求める人々で大層賑わったそうです。

年恵は成人してからも肉体的、精神的には少女のように子どもじみていたと言われています。

他の人には見えなかったようですが、身の回りには神仏がよく現れ、話をしたり、舞を舞っていたそうです。

彼女は元々小食だったそうですが、成人した20歳の頃から食事はほとんどせず、口にするのは生水と生のサツマイモ少しだけだったそうです。

そのせいでしょうか、排泄物は殆ど無かったとか。

汗や垢といったものもほとんど出ない体質だったようで、風呂に入らなくても髪や体はいつも清潔だったそうです。

弟の雄吉は大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役まで勤め上げた人物でした。

彼が見た姉の20歳以後の超常現象などの記録は、後に心霊研究家の浅野和三郎がまとめあげて発表しています。

 

病気を治す霊水とは?

空気中から取り出した水は、人々の目の前で密封した空の一升瓶を満たしたと言います。

集められた水は「霊水」あるいは「神水」と呼ばれ、色々な病気を治す効能があったので、彼女の元には毎日この「霊水」を求めてたくさんの人が集まりました。

実際この霊水を飲んだ大半の人が自分の病気を治すことに成功したとも言います。

でも、冷やかし目的の者や不治の病人には霊水(神水)は授からず、空瓶のままでした。

霊水の色は実にカラフルで赤、青、黄などの色がついていたそうです。

しかし好事魔多しとも言いますが、効き目のなかった人が言い出したのでしょうか、いつしか「長南年恵は詐欺だ、インチキだ」との評判が立つようになり、トリックを暴こうというようになりました。

当時の警察も、霊水など信じていませんから、当然のごとくトリックによる詐欺事件と考え、彼女は警察の捜査を受けることとなったのです。

そしてその結果、彼女は人心を惑わす詐欺師と判断され、警察に逮捕されて監獄に入れられてしまいました。

 

本当に超能力者だったのか?~二度の逮捕と多くの怪現象~

1895年(明治28年)、長南年恵は詐欺行為(神水を用いて、医師の資格なしに病気治療と称する行為)をはたらいたとして、逮捕されました。

地元の山形県監獄鶴岡支署に7月から60日間勾留されましたが、証拠不十分で釈放されています。

この勾留期間中には、様々な現象が起きたと伝えられているのです。

年恵は勾留期間、全然食事を摂らず、しかも一切の排泄物はありませんでした。

監獄では入浴が許可されていなかったのですが、常に彼女の髪は清潔であり、体臭も無く、良い香りがしたそうです。

完全に外部とは遮断されていたはずの監房内で、「神水」「お守り」「経文」「散薬」などを空気中から取り出したとも言われています。

また、長い期間の拘留生活でろくろく運動もせず、足腰が弱るのが当然なのに、なんと一升瓶15本分もある水の入った大樽を軽々と運んだとか、監獄に入っている者の中で、たった一人蚊に刺されなかったとか、複数の係官が不思議な笛の音を聞いたとか、様々な怪現象が起こったそうです。

ただし、以上の快現象は監獄側の資料や公式の文書などには記録されてはいません。

長南年恵側が山形県監獄鶴岡支署長宛に送りつけた「事実証明願」の中にそのような現象があったという主張を書いたものですが、監獄側はこの証明願を却下しています。

年恵は翌年1896年(明治29年)にまた逮捕され、前年と同じ山形県監獄鶴岡支署に10月10日から一週間拘置されました。

釈放後、彼女は大阪空堀町にある弟の長南雄吉の所に身を寄せています。

 

トリックを暴け!~三度目の逮捕と超能力実験~

2度目の逮捕から4年後の1900年(明治33年)7月9日に3度目の逮捕となった長南年恵。

このニュースを受け全国紙の新聞記者が懐疑の目を向け始め、騒ぎが拡大したため、10日間拘置されます。

それから数ヶ月後の12月12日、この拘置に対して神戸地方裁判所で再審が行われました。

裁判の焦点は、逮捕されるきっかけとなった「空のビンを一瞬にして霊水で満たす」という能力でした。

はたしてこの能力は本物なのか、はたまたトリックによる詐欺なのかを巡る裁判でした。

証拠不十分で無罪判決でしたが、好奇心を持った弁護士たちがその後にトリックを暴くため、年恵に実際に目の前で霊水引寄せをしろと要求したのです。

年恵はこの要求に応じ、霊水出現の試験を行うことになりました。

封をした空きビンを渡し、その中に霊水(神水)を満たせるかとの質問に、長南年恵は「できる」と答えたと言います。

実験は神戸地方裁判所で行われることになり、当日は裁判長みずからフタをした50本の空ビンを使うことになりました。

トリック防止のために、実験の前に長南年恵は全裸にされた上、身体を厳重に調べられて、密閉空間の別室に閉じ込められました。

この別室で精神を集中した長南年恵は、5分ほど経った後に空きビンに濃い黄色の霊水(神水)を満たし、裁判長に渡したそうです。

彼女の弟である雄吉によるとその時間は2分ほどでしたが、大阪毎日新聞の記事によれば5分ほどだったそうです。

出入り口もない密室された部屋から持ってきたのですから、これはトリックではなく「ひとりでに水が入った」と認めざるを得ないという結論が出たと言います。

誰一人として文句がつけられない形で、年恵の超能力が本物であることが証明されたわけです。

長南年恵がこの実験で取り出した霊水は裁判長が持ち帰ったと言われています。

また、この実験はきちんとした記録にも残されているそうです。

ここでのポイントは超能力の証明が無罪判決につながったのではないということです。

年恵の弟である雄吉の主張によると「超能力の証明=無罪判決」というような印象を受けますが、実際には証拠不十分で無罪が確定した後に、弁護士や新聞社が実験を要求したので超能力の証明と無罪判決は何ら関わりがないということです。

 

謎の死因

自らの超能力と霊能力を認めさせた年恵はその後、生まれ故郷の鶴岡へと戻り、1907年(明治40年)10月29日、満43歳でこの世を去りました。

死因は不明。

満年齢では44歳と思われてきたのですが、旧暦と新暦の切り替え時期にあたり、生まれた年を旧暦で亡くなった年を太陽暦で計算すると統一性のなさから間違えた年齢で、太陽暦で正確に計算してみると満43歳と10カ月の生涯でした。

死の2ヶ月前には、自身の死を予言していたといいます。

死因については不明とされていますが、水以外のものを口にすると吐血を繰り返していたと言われているので、結核によるものではないかと考えられています。

つまり、「水しか飲まない」という年恵の行動は「結核の症状」と同じだったからです。

死の予言に関しても、自ら結核であるという自覚から察していたのかもしれません。

 

極楽娘年恵観音長南年恵霊堂

2006年(平成18年)11月3日、年恵の没後百年をしのぶ「長南年恵100年祭」が鶴岡市の般若寺で行われました。

ここには彼女の墓があり、記念祭には全国の長南一族を含め、多くの人が集まったそうです。

また、山形県鶴岡市にある南岳寺(即身仏鉄海龍上人が安置されています)の境内にある淡島大明神の堂宇は、長南年恵の礼拝所ともいわれる建物で、「極楽娘年恵観音長南年恵霊堂」と呼ばれています。

 

トリックを暴け!長南年恵~超能力の証明と謎の死因~まとめ

長南年恵は本当に超能力者だったのでしょうか?

神がかり状態になって、他の人の相談に乗っているうちに他の能力が開花し、病を治す能力を持つようになった…そんな気がします。

幼い頃からの子守奉公、他人の病を癒す能力…物欲が少なかったという長南年恵の一生は他人のためのものであったような気がします。

年恵が残したという短歌に、彼女の本意が表れていると思います。

諸人のためとしあらば 我が身こそ 水火のなかも いとうものかは

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