アナタハン島事件|女王蜂と呼ばれた比嘉和子と32人の男

昭和20年(1945)から26年(1950)にかけて太平洋マリアナ諸島のアナタハン島で多数の死者が出るという事件が発生しました。

俗に「アナタハンの女王事件」と呼ばれる事件です。

未だにこの事件には多くの謎があると言われ、発生から70年経った現在に至っても様々な憶測を呼んでいます。

「アナタハン事件」「アナタハン島事件」という別名もあります。

太平洋戦争中、日本は一時太平洋の島々の多くを領土としていました。

その中の一つがアナタハン島です。

第二次世界大戦中から戦後にかけて、この島には日本人が取り残されていました。

いつ救いが来るのかもわからない孤島にたった1人の女と男が32人暮らしていたのです。

アメリカ軍に救助されるまでの6年間に、この1人の女をめぐって殺人や行方不明者が相次いだのでした。

アナタハン島の比嘉和子

日本が統治していたサイパン島から北方約117kmに「アナタハン島」があります。

マリアナ諸島に属していて、長さは約9km、幅は約3.7km。

短時間に一回りできるぐらいの小さな島で、中心部はジャングルです。

無人島ではなく、少数の原住民が暮らしていました。

終戦間近の昭和19年(1944)、この島には日本企業「南洋興発」が進出し、ヤシ林を経営していました。

1924年8月5日沖縄に生まれた比嘉和子は夫とともにこのアナタハン島に住んでいました。

夫・正一は南洋興発の社員で、サイパン島からアナタハン島に転勤になっていたのです。

和子は24歳。

島にいる日本人は、和子と夫の正一、夫の上司である日下部(仮名)の3人のみ。

※ここでの仮名は映画『アナタハン島の眞相はこれだ』を参考にしています。

当時比嘉和子は夫と同居はしていたものの、日下部とも夫婦同然の関係となっていたと言われています。

島には原住民が45人ほど住んでおり、南洋興発は彼らを雇って農園を経営していました。

時は太平洋戦争末期、サイパンも激戦地となりつつありました。

ある日、和子の夫はアナタハンの北にあるパガン島にいるはずの妹が心配だから、迎えに行くと言い残して出かけて行きました。

当時パガン島にも軍人をはじめ、多くの日本人が住んでいたのです。

しかし間もなくサイパンが攻撃されたため、和子の夫はそれっきり消息不明になってしまいました。

アナタハン島も夫が島を出ていった2日後に米軍の空襲を受けました。

爆撃の中、和子と日下部はジャングルに逃げ込んで、命だけは何とか助かりましたが、家に戻ってみるとあたり一面焼野原と化していたのです。

飼っていた40頭の豚と20羽のニワトリは何とか無事でしたが、着るものはもちろん、寝る所にも困る生活となってしまったのでした。

夫が出て行ったので島に残っている日本人は和子と日下部の2人だけです。

こうなってしまったら、2人で力を合わせて生き延びるしかありません。

日下部もサイパンに妻子がいましたが、時を置かず和子と夫婦生活を始めるようになりました。

アナタハン島の31人の男たち

昭和19年(1944)6月12日、アナタハン島の近海をトラック諸島に向けて進んでいた日本のカツオ漁船数隻が米軍の攻撃を受け、3隻が沈没し、1隻が大破しました。

沈没した3隻の乗組員たちは何とか脱出し、アナタハン島に泳ぎ着きました。

大破した1隻もアナタハン島まではたどり着いたものの、再び空襲を受け焼失してしまったのです。

漁船4隻分、合計31人の男たちがアナタハン島にたどり着いたのです。

乗組員の大半が20代で、最年少はまだ16歳の少年でした。

31人中、軍人10人に軍属船員21人。

帰る船を失った彼らはこの島で生活を始めざるを得ませんでした。

熱帯性気候の島にはバナナやパパイヤなどが自然に生えていたし、タロイモもあったので、食べる物については何とかなりました。

最初のうちこそ乗っていた船ごとに分かれて生活していた彼らですが、やがて全員で共同生活をするようになりました。

男たちは和子や日下部にも会いました。

2人は故郷を遠く離れた地で、同じ日本人に出会ったことを喜び、食糧を分けたり、怪我の手当てもしてやったのです。

仲間が増えたと嬉しかったのでしょう。

アナタハン島の衣食住問題

しかし、原住民45人と和子、日下部の47人しかいなかった島にいきなり31人も人が増えたのです。

いずれは食糧が不足してくるということはたやすく想像出来ました。

飲み水は漂着したアメリカ製のドラム缶に雨水を溜めて確保できましたが、予想通り、豚やニワトリはすぐに食べつくしてしまい、食べる物に困るようになってしまいました。

海で魚を獲ったり、果物の栽培を始めたり、コウモリやトカゲ、ネズミなどを獲って食べたり、珍しいヤシガニなども食糧にしました。生存のための戦いが始まったのです。

色々と工夫して何とか食糧確保の目処が付いてくると、原住民からヤシの樹液を使った酒の造り方を習ったりしました。

そのやり方で酒を造って、全員が飲めるぐらいに食生活には余裕が出てきました。

しかし、食糧は何とかなったとは言え、他のものは圧倒的に不足していました。

身にまとう服もろくろくないような生活であり、暖かい島だからこそ可能だったのでしょうが、和子は木の皮から作った腰ミノを巻いて、上半身は裸のまま、他の男たちは元から着ていたボロボロの服や、木の葉で前を隠すだけというアダムとイヴのような格好で過ごしていたのでした。

終戦 ~取り残された日本人~

昭和20年(1945)8月、日本が降伏して太平洋戦争は終結しました。

だが、島に残された彼らはそのことを知るはずもなく、今までどおり暮らしていました。

米軍は何度も何度も終戦を知らせる呼びかけを行いましたが、島内の日本人でそれを信じる者は1人としていませんでした。

また、飛行機からビラをまいて投降を呼びかけもしたのですが、ビラを拾う者さえいなかったのです。

日本の敗戦で、アナタハン島は日本の領土ではなくなりました。

原住民は全て逃げ出し、33人の日本人だけが残されました。

争いを避けるための結婚した比嘉和子

この島に残っている女は比嘉和子ただ1人。

そして男は32人。

人間の第一次欲求の一つは「性」

生存が保証されたら、次にその欲求が吹き出してくるのは当然のなりゆきだったのでしょう。

女をめぐる争いを誰もが予想し、不安に思っていました。

事実、和子にちょっかいを出そうとした男は1人や2人ではなかったのです。

不穏な空気を心配した最年長の男が、この島に元々いた和子と日下部に夫婦になるように提案しました。

2人が皆の前で結婚したら、他の者も諦めがついて、和子に手出しせず、島内での争いを防ぐことが出来るだろうと考えたのでした。

比嘉和子と日下部は結婚式を挙げ、皆とは離れた所に住居を作って住むことになりました。

拳銃と3人の夫

昭和21年(1946)8月、山の中に墜落した米軍戦闘機B29の残骸が発見されました。

その中には6つのパラシュートや缶詰など、生活に役立ちそうなものが色々ありました。

和子はパラシュートの布を持ち帰り、自分の服やスカート、他の男たちの服も作ってやったのです。

このおかげで、やっとある程度はましな格好が出来るようになりました。

下半身は腰ミノ、上半身は裸の和子の姿が男たちの劣情を刺激していたきらいもあったそうです。

B29の墜落現場から少し離れた所には拳銃を4丁と実弾70発が残っていました。

拳銃自体は壊れていて使い物にはならなかったのですが、銃に詳しい西尾(仮名)という男が拳銃を修理し、2丁の「使える拳銃」を完成させました。

銃は組み立てた西尾と、その親友の柳沼(仮名)が1丁ずつ持つことになりましたが、武器を持った男が存在するようになったことで、集団の中に力関係が発生しました。

銃を手にした2人の男が絶対的な権力を持つようになってしまったのです。

すぐに2人は銃で脅して和子を抱くようになりました。

彼女には再婚した日下部がいましたが、西尾と柳沼は日下部の存在などお構いなしに好き勝手に振る舞ったのです。

和子は3人の男と夫婦生活を送ることになってしまいました。

事故から殺人へ

それからしばらくして不審な事件が発生しました。

1人の男が木から落ちて死んだのですが、現場近くにいたのは銃を手にした2人の男。

そして木から落ちて死んだ男は、この2人とは普段から犬猿の仲だったので、小さな島の中には異様な雰囲気が流れました。

「2人が銃で脅して男を木に昇らせ、転落死のようにして殺したんじゃないのか?」

確たる証拠はなかったのですが、みんなが殺人ではないかと疑心悪鬼となりました。

数ヶ月後、事件が起こりました。

銃を持っていた西尾が、日常的に和子にしつこく迫っていた仙波(仮名)を射殺してしまったのです。

アナタハン島に殺人が起き始めました。

拳銃を持つ男 ~比嘉和子をめぐって~

西尾と柳沼、2人の島内支配はこの後も続いていましたが、翌昭和22年、銃を持っていた2人が仲間割れを起こしました。

酒を飲んでいてケンカになったあげく、西尾が「2、3日の間にお前、ブッ殺してやる!」と柳沼に言い放ったのです。

しかし、射殺されたのは怒鳴った西尾の方でした。

ケンカの原因は比嘉和子。

西尾が殺されたことで、和子の夫、日下部は自分も殺されるのではないかと恐ろしくなり、西尾を射殺した柳沼に和子を譲り、自分は身を引くと言ったそうです。

逃げ出したということでしょう。

西尾の銃を手に入れ、計2丁の銃を独り占めした柳沼が今度は絶対的な支配者となり、和子と夫婦生活を始めました。

しかし、しばらくしてこの支配者も夜釣りをしている最中に、海に転落して死んでしまったのです。

事故なのか殺人なのか、はっきりしませんでしたが、誰が見ても不審な死に方でした。

アメリカの銃を手に入れた2人が両方とも死んでしまった。

その後、この2丁の銃は和子の夫日下部と、もう一人の男、吉里(仮名)が持つことになり、今度は日下部と吉里と比嘉和子が同居することになりました。

島内には「銃を持っている男が比嘉和子を抱ける」という強い雰囲気が漂い始めたのです。

しかし、3人のこの生活も長くは続きませんでした。

一ヶ月後、吉里が日下部を射殺し、二つの銃を手に入れました。

当然の権利として、吉里が他の者に支配者のように振るまい、和子と夫婦になりました。

しかしこの吉里も2年後には刺殺されてしまったのです。

正式な結婚 ~権力の象徴、拳銃を捨てる~

銃を持つ故の権力争いとともに、島の中では崖から転落して死んだ男、食中毒で死んだ男、いきなりいなくなった男などが次々と出始め、9人の男が消えてしまいました。

亡くなった人の中には本当の事故死や病死もあったかも知れませんが、何者かに殺された者が一番多かったことは言うまでもありません。

「このままにしておいたら、狭い島でいつまでも殺し合いが続き、人がいなくなってしまう。この悲惨な状態を何とかしなければ」と、最年長の男がみんなに提案を持ちかけました。

比嘉和子を正式に結婚させ、その夫と暮らすこと、他の者はその2人に手出しをしないこと、そして殺人と権力の元凶となった拳銃を海に捨てることの三つです。

幸いなことに、最後に銃を持っていた吉里が殺されてから、銃によって支配しようとする者は現れていませんでした。

とは言え、銃自体はまだ残っているので、銃による支配を考える男がいつ出てきても何の不思議もありません。

島の男たちは和子に自分の好きな男を選ばせると、皆の前で結婚式を挙げさせました。そして銃は海へ捨てたのでした。

このことはアナタハン島にとって一つの大きな区切りとなるはずでした。

女王・比嘉和子 処刑会議

和子に正式な夫を与え、離れた場所で生活させることにより、今後は平和な島になると誰もが期待しましたが、現状はさほど変わりませんでした。

この後も男が4人、死んだり行方不明になったりしたのです。

最初の殺人が起こってから5年が過ぎましたが、32人いた男は19人にまで減っていました。

比嘉和子に正式な夫を決めても、銃を捨てても、やはりたった1人の女である彼女をめぐって殺人は起こってしまう。

「どうすれば殺し合いをやめられるのか。」

生き残っている男たちはこっそりと話し合いました。

そこで出されたのは「比嘉和子を処刑する。」という、本人にとっては理不尽きわまりない結論でした。

「和子がいるから殺人が起こる。だったら、和子がいなくなればいいのだ。」

全てを彼女一人のせいにすることで男たちの気持ちは納得したのです。

明日、比嘉和子を殺すということで全員の意見が一致したのです。

逃げ延びた女王比嘉和子

その日の夜、1人の男がひそかに比嘉和子の小屋を訪ね、このことを伝えました。

「明日、殺されるぞ。早く逃げろ。」

男たちの非道な考えを知った和子はすぐさま小屋を飛び出し、ジャングルに逃げ込みました。

何がいるかわからない、恐ろしいジャングルで野宿をする生活が始まったのです。

女一人、夜は明かりもない環境の中、食物も自分の手で何とかするしかありません。

無論、命がかかっているのですから、絶対男たちに見つかるわけにはいきません。

過酷な逃亡生活に入って33日が過ぎました。

昭和25年(1950)6月、彼女は沖にアメリカ船がいるのを発見しました。

ためらうことなく、すぐに木に上ると、パラシュートの布を振りながら大声で叫び、助けを求めたのです。

アメリカ船が島に近づいて来ましたが、男たちはまだ戦争終結を信じていなかったために敵兵から隠れていました。

和子は危険な男たちに邪魔されることなく、無事にこのアメリカ船によって救助してもらうことが出来たのです。

孤島での6年間の生活の間、殺された者と行方不明になった男は13人に上りました。

和子はこの後サイパンに送られて一ヶ月を過ごし、グアムに滞在した後、日本に戻って来ることが出来ました。

救助された彼女は、アナタハン島で起こった出来事や、島に残っている日本人の名前、男たちの元の所属など、出来得る限り細かく教えたのです。

帰還した兵士たち

和子の帰還によって、アナタハン島に残っている男たちのことが、すぐに彼らの両親や兄弟、妻などに伝えられました。

島に残っている男たちはまだ戦争終結を信じていません。

そのため、それぞれの両親、妻たちからの200通以上の手紙や日本の新聞がアナタハン島に届けられ、アメリカ軍も島から出てくるように呼びかけました。

それでも島に残った男たちは、アメリカ側の罠だと考え、戦争が終わったことを信じようとはしません。

1人として島から出ようとはしなかったのです。

和子が島を出て1年以上経った昭和26年(1951)6月9日、やっと1人の男が呼びかけに応じて投降しました。

自分宛てに届いた手紙の封筒を妻の手作りしたものだとはっきり確信出来たからです。

この男もアメリカ船に無事救助され、残っている島の男たちへスピーカーで説得を行いました。

半月ほどした6月26日、この男の呼びかけに応じて、島の男たちはやっと敗戦の現実を受け入れ、全員が降伏してアメリカ船に救助されました。

彼らは一旦グアムの米軍基地に送られ、その後日本に帰されることになったのです。

昭和26年(1951)7月26日、羽田空港に降り立った時には、全員が泣いていたといいます。

終戦から6年近く太平洋の島で孤立していた日本人の帰国をマスコミは大々的に報道し、羽田にも帰還した兵士たちを一目見ようと多くの人々がつめかけました。

アナタハン島から奇跡の帰還 そして混乱へ

アナタハン島で生存していた男たちは、全員戦死したものと思われており、戦死の公報も送られていました。

そのため、ほとんどの男はすでに葬儀も行われていたのです。

しかし、生きていたということで「奇跡の生還」と称して、自分の遺影を持たせられた写真などがマスコミに報道されることもありました。

比嘉和子の本来の夫であり、島を出てから消息不明になっていた比嘉正一はとっくに帰国しており、妻は死んだものと思い、沖縄で別の女性と再婚していました。

アナタハンから帰って来た他の男たちも、妻が他の男と再婚していたり、愛人がいたりといった思いがけない事態に直面することになったそうです。

その中には、妻が自分の弟と再婚し子供までいたという男もいました。

この場合は話し合いの結果、妻はアナタハンから帰って来た元の男の妻に戻り、義弟との間に出来た子供は養子として迎え入れたそうです。

アナタハン事件の発覚

島に流れ着いた4隻のカツオ漁船の亡くなった乗組員についての尋問が行われました。

生還した男たち全員は口をそろえて「彼らは事故死した」と証言したのです。

しかし、詳しく聞いてみると、それぞれの話が食い違っていました。

更に厳しく追求したところ、アナタハン島で比嘉和子を巡っての殺人や行方不明事件があったことが明らかとなりました。

この事実も大々的に報道され、新聞や雑誌では比嘉和子のことを「アナタハンの女王」「32人の男ハーレムを作った悪女」「働き蜂を食い殺す女王蜂」「獣欲の奴隷」「男を惑わす女」などと扇情的なタイトルで記事を書きたてました。

中には、「孤島という酷い環境で、夫もいなくなり、心細い思いをしながら生きていくためには男にすがるしかなかったのだろう」という和子に同情的な記事もあったのですが、多くの記事は彼女に責任を負わせ、非難・中傷したり、ゴシップねたとして事件を誇張するものでした。

 

女優 比嘉和子

人々の好奇の目は和子に集中し、芸能人のようにブロマイドは爆発的に売れました。

日本にはアナタハンブームがおこり、長い間話題で持ちきりとなったのでした。

和子には舞台の話が持ちかけられ、彼女の主演で「アナタハン島」という芝居が作られ、昭和27年(1952)から2年間、全国を巡業しました。

翌28年(1953)4月には「アナタハンの毒婦」と称された比嘉自身が主演した実録映画「アナタハン島の眞相はこれだ」(監督:吉田とし子、新大都映画)というB級猟奇映画が製作されました。

ちなみに当時の女性の活躍について調べてみると、日本の女性監督第一号は昭和11年(1936)に「初姿」を監督した坂根田鶴子が記録映画監督としては初めてのようです。

長編劇映画としては女優の田中絹代による初監督作品「恋文」が昭和28年(1953)12月に公開されています。

本作「アナタハン島の眞相はこれだ」は同28年の4月に公開されているので、劇映画としては女性では初監督作品ということになります。

 

映画 『アナタハン』

新聞で事件を知ったハリウッドの名監督ジョセフ・フォン・スタンバーグが、訪米中の川喜多長政(国際的映画人として有名。川喜多かしこの父)に映画化の申し入れを行ったことで、アメリカ映画『アナタハン』の制作が開始しました。

『アナタハン島の眞相はこれだ』では、和子をめぐる男たちの殺し合いばかりが誇張して描かれ、島からの帰国の時期も実際より早く設定されていました。

スタンバーグはこれをほぼ実話通りに戻し、女王蜂とあだ名された和子と男たちとのラブストーリーに重点を置くように変更したのです。

この映画には、極限状態に置かれた人間の生態を昆虫になぞらえた「観察記」という意味合いも持たせているそうです。

映画の主演には日劇ダンシングチームに所属していた根岸明美を起用し、キャストはすべてスタンバーグ自身の抜擢による新人俳優を登用しました。

また監督自身の意向により、オール日本人キャストであり、日米合作ではなく日本映画として製作された映画です。

映画では登場人物すべてを仮名にし、比嘉和子は日下部恵子という名前に変えました。

スタンバーグの受け入れ先は独立プロの大和プロダクションであり、映画監督滝村和男がプロデュースをしていましたが、実際にはハリウッドの巨匠と仕事をする絶好のチャンスを得た日本の映画会社東宝が、若手スタッフを送り込むなどの協力をしていました。

また、『ウルトラマンシリーズ』などで有名な円谷英二が特殊効果を担当し、冒頭の戦闘機襲来シーンのような彼が得意とする場面を含め、モノクロ映像を使って熱帯のジャングルを表現するために木々や葉に蛍光塗料を塗るなどのアイディアを提供したそうです。

スタンバーグの要望により、撮影は京都の岡崎公園にある京都市勧業館(旧建物。現在の「みやこめっせ」は1996年に竣工)の展示施設を借り切り、アナタハン島のセットを大々的に建造して行なわれました。

昭和28年(1953)に公開された映画「アナタハン」はアメリカでは好評でしたが、肝心の日本では評判はパッとしませんでした。

『アナタハン島の眞相はこれだ』が続けて公開されたのと、日本公開時には日本語字幕がついていなかったことも敬遠された一因と思われます。

期待はずれの結果となり、スタンバーグにとっては実質的に最後の作品となりました。

昭和34年(1959)、アナタハン事件を題材にしたコメディ映画『グラマ島の誘惑』が公開されました。

殺人などは起こらず、漂着した人々が無人島で生き抜いていくという展開は、十五少年漂流記を思わせます。

森繁久彌、フランキー堺など当時の人気俳優が出演し、アナタハンでの悲惨な孤島生活を皮肉るように、役立たずの男たちを尻目に、女たちが肉体労働しながら生きていくという映画でした。

東京島

『東京島』は、桐野夏生による日本の小説、またそれを原作とした2010年8月28日公開の日本映画で、アナタハンの女王事件をモデルに創作された作品です。

『新潮』(新潮社)に、2004年1月号から2007年11月号まで断続的に計15回連載され、2008年に刊行されました。

第44回谷崎潤一郎賞受賞作でもあります。

清子はクルーザーで夫・隆と世界一周旅行に旅立ちました。

しかし、出航してわずか3日目に嵐に遭遇し、数日間漂流した後に、どこともわからない無人島に夫婦は漂着してしまいます。

それから間もなく、与那国島での過酷な労働に耐えかねて脱出しようとしたフリーター23人が台風に遭い、2人のいる島にたどり着きました。

さらに日本への密航の途中で金銭トラブルに発展した中国人11人も島に置きざりにされてしまったのでした。

無人島に閉じ込められた1人の女と多くの男たち。

この孤島はいつしか「トウキョウ」と呼ばれるようになりました。

たった1人の女清子は「人間の欲望=性」を武器に逞しく生き抜いていきます。

清子役は薄幸の女役なら右に出る者はいないと言われている木村多江が、その思い込みをぶち破るかのようにしぶとく図々しい女を演じています。

その後の比嘉和子

和子は日本中知らぬ者がいないほどの「超」有名人にはなりましたが、もちろん彼女自身が望んだ結果ではなく、良い意味で名前が知られたわけではありませんでした。

新聞記事や週刊誌に取り上げられると、男を色仕掛けでたぶらかして、何人も死に追いやった稀代の悪女のような書き方ばかりされました。

彼女は芝居の巡業が落ちついてからは沖縄に戻り「カフェ・アナタハン」を開いて商売をしていたのですが、相変わらずの誹謗中傷報道ばかり続くので、故郷である沖縄にも居づらくなり、本土へ引っ越しました。

興行師の口車に乗ってしまい、東京浅草でしばらくストリッパーをしていましたが、再び沖縄へ帰り、34歳で2人の連れ子がいる男性と再婚しました。

新たな夫とたこ焼きとかき氷の店を始め、店も繁盛し、やっと平穏な生活を取り戻すことが出来たようだったと言われています。

40代半ばで夫に死別し、和子自身も1974年に脳腫瘍で49歳の波乱の人生を閉じました。

アナタハン島事件 まとめ

比嘉和子にとってアナタハンでの6年間は悪夢の時間だったのではないと思います。

当時の女は結婚相手を選ぶことはできませんでした。

夫が南の島に行けば従っていくしかなかったのが当時の妻。

そこでの過酷な生活。

生き延びるために、どれほどの強靱な意志が必要だったのでしょう。

帰国してからも中傷を浴びせられる生活。

わずか49歳でその人生を終えた和子。

再婚相手の連れ子に愛情を注いだという彼女の晩年は、前半生の苛烈さを補う穏やかで豊かなものであったことを願わずにはいられません。

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