寿産院事件

寿産院事件は妊娠中絶が合法化される以前の悲惨な事件です。

寿産院事の死者数は約103人。

津山30人殺しと比較してもその数の異常さがわかると思います。

そんな凄惨な事件が戦後直後に起こります。

寿産院事件の発覚

1948年1月15日午後7時30分頃、東京新宿区弁天町にて早稲田署員2人がパトロールをしていたところ、自転車に乗って数個のミカン箱を運んでいた葬儀屋の長崎龍太郎さん(仮名:当時54歳)を見かけ、不審に思って事情を聞きました。

荷台に積んであった箱を調べたところ、中には嬰児の死体がメリヤスのシャツとオムツに入れられていました。

彼は「これは寿産院というところから頼まれたもので火葬場に運んでいる最中だ」と語りました。

葬儀屋の長崎さんは牛込柳町にある寿産院から計4体の遺体を運んでいる最中であり、前年の8月以来、約20体以上運んでいたといいます。

これを怪しいとにらんだ警察は、葬儀屋長崎さんが運んでいた遺体で、最近亡くなったとみられる6体を解剖し、3人は肺炎、2人は凍死、1人は餓死したことがわかりました。6人とも食べ物が与えられた痕跡はありませんでした。

その後、寿産院を経営する石川ミユキと石川猛を呼び取り調べたところ、大量の子供が死亡していたことが判明しました。

犯人逮捕

数人いた助手のうちひとりはこう証言しています。

子供が次から次へと死んでゆく様子を見て、とても気味悪くていられなかった。一日に粉乳の2匙や砂糖3匙ではとても子供を育てられないから、ミルクの分量を増やしてくれるよう頼んだが、石川夫婦は頑として応じず、とても我慢できなかった

これに対し、石川ミユキはこう反論し、殺意を否定します。

故意にミルクを与えなかったわけではなく、栄養失調になったのは助手の不注意が原因だったのだ。私も止むに止まれず面倒をみていたのだ

まもなく石川夫婦と助手のひとりA子さん(当時25歳)は殺人罪の容疑で逮捕されました。

また同院から一人500円の埋葬料をもらって遺体を処理していたとされる葬儀屋の長崎龍太郎さんは容疑不十分で釈放されます。

石川ミユキと猛

逮捕された石川ミユキは、1897年(明治30年)宮崎県の東諸見郡本庄町で生まれ、県立職業学校を卒業したのち、18歳で上京、東大医学部産婆講習科に入学します。

その後産婆となり23歳の時に石川猛と結婚。

それと同時に牛込で産院の経営をはじめ、牛込産婆会の会長を務めていたほか、1947年4月には新宿区議会議員選挙に自民党から出馬するも落選しています。

夫の石川猛は茨城県生まれ、地元の農学校を2年で中退。その後現役志願で憲兵軍曹となります。退役後は警視庁巡査も務めており、1926年に警察をやめてからは妻の尻に敷かれながら暮らすようになっていたというそうです。

寿産院事件当時の社会背景

この事件の舞台になった寿産院では1944年ごろから新聞に三行広告を出して、食糧難に嘆く母親たちから、一人あたり約5000~6000円の養育費で子供を預かっていました。

約5000~6000円というと、当時はたばこ「ピース」10本入りが7円、NHK徴収料が5円、新聞が月8円であったことから、かなり大きい取引額だったことがわかります。

また預かった子は1人約300円、器量のいい子は1人約500円という値を付け、希望者に売ってました。

敗戦から3年ほどしか経っていないこの時期は、ベビーブームでした。

貧しく混乱の時代であったため、このような生業が成立したのでしょう。

警察が寿産院に駆け付けた時、院内に7人の子供がいました。

一人がすでに亡くなっており、残りの子供も真冬だというのに肌着1枚しか着せられず、泣く力すらないほどに衰弱していました。

この時までに寿産院に預けられた子供は、延べ240人にものぼります。

そのうち約103人が亡くなっていたとわかりましたが、正確に把握はできておらず、一説では169人にもなるともいわれています。

寿産院にはこれだけ多くの子供を受け入れるだけの人員も設備もありませんでした。

ところが石川夫婦は、産院を経営すれば政府から乳児用の主食配給を獲得できるため、子供を預かっていました。

しかし、食べ物をほとんど与えず、病気になってもほったらかしにしていたと考えられます。

食事を与えないだけではなく風呂にも入れず、親のある子が亡くなると、親のいない子が死んだように偽装して、配給品を受け取っていたとみられます。

さらに石川夫婦は受け取った配給品のほとんどを横流ししていました。

子供が亡くなったと時に配給される葬儀用のお酒でさえ、横流ししていたといいます。

彼らが設けた額は100万円余りにものぼるとも考えられます。

区役所の職員らに酒をふるまったりして、戸籍手続きや衛生などの取り締まりに対して便宜を図ってもらっていたとものちに語られています。

寿産院事件 その後

事件後、生き残った乳幼児たちの半数は親元に帰ったり養子に貰われたりしたそうですが、残り半数は孤児院に預けられることになります。

この事件は食料難で泣く泣く子供を手放した親と、子供に対する配給制度に目を付けた犯罪者が起こした、戦後直後の悲劇といえますが、恐ろしいことに同じようなことを考える人は少なくないようです。

1947年1月には都内の産院が567件だったのに対し、同年12月末には768件まで膨れ上がっています。

また1948年2月には新宿区戸塚町の淀橋産院が61人の嬰児の栄養不良死で摘発され、第二の寿産院事件といわれるようになりました。

その後、1948年7月13日には厚生省が産婆を助産婦と改称し、同時に国家資格が設けられました。資格を得るには専門の医学を学ばなければなりません。

翌949年4月30日には避妊薬使用が許可され、同年6月24日には経済的理由による妊娠中絶が許可されました。

そして1948年10月11日東京地裁にて、妻の石川ミユキには懲役8年、夫の猛には懲役4年、助手のA子には無罪が言い渡されました。

1952年4月、東京高裁にて妻・石川ミユキは懲役4年、夫猛は懲役2年の判決がくだりました。

石川ミユキ|寿産院事件 まとめ

事件発覚後、亡くなった子供の親たちは、早稲田署に「鬼を殺せ、鬼に会わせろ」と押し掛けた騒動がありました。

犯人の石川ミユキは彼らに対し、こう語っています。

私は誠心誠意やってきた。母親たちは、赤ん坊の健康が優れないのに、母乳も与えず、無理に預けて帰ってしまう。死ぬのは当然です

103人もの犠牲を出した悲惨な事件ですが、時代背景を考えると善悪はっきりしない事件です。

妊娠中絶が非合法だった時代の悲しい事件といえるでしょう。

画像出典:ウィキペディア

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