ダッカ日航機ハイジャック事件

この頃の日本赤軍の要求は仲間の解放でした。

捕まっている仲間を奪還することで、さらに組織の拡大を狙ったのでしょう。

今後、日本赤軍解散宣言までの間、手段を選ばない過激な事件を繰り返すことになります。

日本赤軍 ハーグ事件(オランダ)

1974年7月26日、日本赤軍の山田義昭がパリのオルリー空港で偽造米ドル所持、偽造旅券行使の容疑で逮捕されました。

これに対して日本赤軍は山田義昭の奪還を図り、9月初め構成員の和光晴生、奥平純三、西川純の3人が、オランダのハーグにある在蘭フランス大使館を襲撃して人質を取り山田と人質を交換する交渉を行うように指令を受けます。

この指令を行ったのが最高幹部である重信房子とされ、のちにこの事件への関与で起訴されることになるのです。

1974年9月10日、3人はスイスのチューリッヒで合流し、鉄道でオランダに入国。

1974年9月14日、3人はフランス大使館に拳銃・手榴弾で武装して侵入します。

館内にいた大使ら11人の人質を取って大使室に立てこもった犯人らは「フルヤ」の偽名を使っていた山田義昭の引き渡しに加え、脱出用の航空機および、慰謝料100万ドルを要求します。

そしてその間に人質救出を試みたオランダ警察と撃ち合いになり、警察官2名が打たれて重傷を負い、奥平も被弾し右上腕部を負傷します。

9月15日にはパレスチナ解放人民戦線、通称PFLPのテロリストであるカルロスが、この立てこもりに追従する形で、パリで爆弾テロを起こし、2人が死亡、34人が負傷させられ、フランス当局にプレッシャーをかけました。

9月17日、交渉の結果、オランダ政府が30万ドルを支払ったうえで、フランス政府が山田義昭を釈放し、国外逃亡用のボーイング707も用意されました。

9月18日、午前6時7分、山田義昭と金を受け取った犯人の3人は人質を解放し、午前6時26分スキポール空港を飛び立ちます。

その後犯人を乗せた機体は、南イェメンへ向かい同日午後2時5分にアデンに降り投降しますが、南イェメン政府に拒否されたため、燃料の補給を受けて再度出発。

同日午後10時、シリアのダマスカス空港に着陸し、シリア当局へ投降しました。

その後、西川純は翌年の1975年3月5日にストックホルムで逮捕されます。

日本に強制送還され、和光晴生、奥平純三、山田義昭の3人は同年8月のクアラルンプール事件に参加し、西川純を再び奪還することとなります。

日本赤軍 クアラルンプール事件(マレーシア)

1975年8月4日、武装した日本赤軍メンバー、丸岡修、和光晴生、奥平純三、山田義昭、日高敏彦の5人が、マレーシアの首都クアラルンプールにあるアメリカとスウェーデン大使館を襲撃、占拠し、館内にいたアメリカの総領事ら50人を人質に取り、立てこもりました。

その後犯人グループは人質の解放と引き換えに、日本国内で服役・勾留中の西川純、戸平和夫、坂東國男、坂口弘、松浦順一、松田久、佐々木規夫の7人の釈放を日本政府に要求します。
この要求に日本政府は応じ「超法規的措置」として7人に日本赤軍への参加意思を確認。

しかし坂口弘は「私の闘争の場は公邸で、暴力革命を志す時期ではない」として、保釈中だった松浦順一は「今は逃走を保留しているので、誰に誘われても行く気はない」と釈放を拒否します。
これにより坂口弘、松浦順一を除く5人を釈放、出国させました。

反政府過激派が日本政府に対して勾留メンバーの釈放要請をし、実際に釈放されたのはこれが初めてでした。

こうして釈放された5人は出国し、犯行グループは7日に日本航空のダグラスDC-8型機でリビアに向け出国し、リビア政府に投降しました。

その後釈放メンバー5人の内、西川純と戸平和夫は国際手配され、国外で身柄を拘束された後に日本へ送還され刑が下されます。

日高敏彦は1976年9月に身柄拘束された後で、10月に獄中自殺。

和光晴生は起訴されて無期懲役判決がくだることとなります。

そして犯人グループのメンバーとされていた者の内、丸岡修と山田義昭は身柄拘束後の裁判ではこの事件では起訴されず、丸岡は別件のテロ事件で無期懲役が確定し、山田は比較的微罪の偽造有印公文書偽装罪で懲役1年4か月という判決となりました。

奥平純三、坂東國男、松田久、佐々木規夫は現在も国際手配され、彼らの裁判は停止されたままです。

日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件(バングラデシュ)

1977年9月28日、フランスのシャルル・ド・ゴール空港発、ギリシャのアテネ国際空港行きの、日本航空472便が経由地のムンバイ空港を離陸直後、拳銃や手榴弾で武装した日本赤軍グループ、丸岡修、佐々木規夫、坂東國男、西川純、和光晴生の5名によりハイジャックされました。

同機はカルカッタ方面にいったん向かった後、進路を変更してバングラデシュの首都、ダッカのジア国際空港に強行着陸。

犯人グループは人質の身代金として、現在の価値で約16億円にあたる600万ドルと、日本で服役および勾留中の9名、奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否または回答がない場合は人質を順次殺害すると警告しました。

この時、犯人グループからアメリカ人の人質を先に殺害するという条件が付けられました。

というのも当時のアメリカ合衆国大統領、ジミー・カーターの友人であるアメリカ人銀行家が乗っており、犯人たちはそのことを事前に知っていたとされています。

犯人たちは人質からパスポートと時計、金銭や貴金属類を没収し、手荷物を一つ残らず搭乗口に積み上げ、窓のシールドをおろさせ、バリケードを作り立て籠もりました。

日本政府はこれ以上の交渉や武力での解決を良しとせず、10月1日に福田赳夫内閣総理大臣が「1人の命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い、および「超法規的措置」として収監メンバーなどの引き渡しを行うことを決定。

釈放要求

日本政府が過激派にル獄中メンバーの釈放要求に応じたのは、クアラルンプール事件以来これで2回目となりました。

しかし、釈放要求された9名の内、植垣康博、知念功、大村寿雄の3人は釈放および日本赤軍への参加を拒否します。

同日朝、日本政府は運輸政務次官の石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長をはじめ同社の役員や運輸省幹部をを中心としたハイジャック対策の政府特使と交代の客室乗務員、6tの食料、身代金と釈放に応じたメンバー6人などを日本航空特別機でダッカに輸送します。

犯人側は当初から「日本政府とは交渉しない」と通達したため、交渉はバングラデシュ空軍のマムード司令官によって行われました。

日本航空特別機がダッカに到着した時には現地で人質の部分解放、残りは移送先で解放という内容で現場はまとまっていました。

マムードはこの事件の解決を自分と国の威信をあげるために利用しようと考えていました。

しかし10月2日に発生したクーデターによってマムードが負傷したため、その後の通信・交渉は彼の部下が替わって行ったそうです。

その後日本側が犯人と通信をすると犯人グループは態度を硬化するということが何度も繰り返され、日本側は全く交渉の相手にされませんでした。

10月2日、妊婦や病人など数名の人質の交換が行われ、わずかな食料と水の差し入れを犯人側が受け入れました。

犯人は自分たちが持ち込んだビスケットだけを口にし、水は人質に毒見をさせていたそうです。その後救援機がハイジャック機の止まっている滑走路の反対側に駐機。

犯人側は飛行機を離陸体制にしますが、マムード司令官の部下などによって進路を車などでふさがれ、動けない状態にされます。

これに対し犯人たちはアメリカ人銀行家を殺すという通信のカウントダウンを始めます。

カウントダウン終了の5秒前、ついに日本政府は犯人の要求をすべて呑む回答をしてしまいます。

この際派遣団長の石井一運輸政務次官は独断で、救援機の中で最後の交換要員である奥平に自分たち日本代表の人員と人質全員を交換するよう説得を頼んだことで犯人は小刻みに合計118人を解放しましたが、残りの33人については解放を拒否します。

さらにバングラデシュ内ではクーデター未遂事件も発生し、11名の死者を出すなど混乱をきわめていました。

石井運輸政務次官などは粘り強く交渉を続けたものの、クーデター軍による身代金強奪を恐れたバングラデシュの大統領により強制離陸命令が発令。

乗務員と残りの人質を乗せたハイジャック機は救援機とともにダッカを離陸し、日本の外務省が受け入れの交渉手配したアルジェリアへと向かうことになります。

経由地のクウェートで人質7人をシリアのダマスカスで人質10人を解放。

その後アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、ここでハイジャック犯と釈放犯は同国当局に投降してその管理下に置かれ、最後の人質12名と乗員7名の全員が解放され、事件は犠牲者を出すことなく、一応の終結を迎えたのです。

ダッカ日航機ハイジャック事件 その後

事件解決に多大な協力を受けた上に11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュへ謝礼とお詫びの意を送りました。

しかしバングラデシュ政府は日本政府に対し訴訟などを求めず、このバングラデシュ政府の対応は大きな称賛を受けることとなります。

この事件における日本政府の「超法規的措置」はテロに悩まされた多くの諸外国から「日本はテロまで輸出するのか」などと批判されましたが、当時は諸外国においてもテロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中の仲間を釈放することは珍しくなく、日本のみがテロに対して弱腰であったというわけではなかったようです。

しかし国内でも「法治国家において、安易に法を無視した施行」とされ、大きな非難を受けることになりました。

1970年代の世界各国では頻発していたハイジャックやテロ事件を対処するため特殊部隊の創設が進められつつあるところでした。

日本政府も同年、ハイジャック事件等に対処する特殊部隊を警視庁と大阪府警察に創設。

これらは当初特科中隊、もしくは零中隊などと通称され、存在自体が長期間非公表とされていました。

1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人の確保、人質を救出したことで、広く世間に知られるようになりました。

その後これらの特殊部隊は舞台を増設し、装備を強化したうえで、SATと呼ばれるようになり、世間に認知されたそうです。

この事件で釈放されたメンバー6人の内、1986年に泉水博、1996年に城崎勉、1997年に浴田由紀子がそれぞれ身柄拘束されています。

実行犯として丸岡修と西川純が逮捕され、無期懲役の判決を受けました。

和光晴生はこの事件訴追されず、別事件で訴追され、無期懲役判決を受けています。

現在も佐々木規夫、坂東國男、奥平純三、大道寺あや子、仁平映の5名は国際手配中です。

日本赤軍が関係していると考えられる事件

数々の事件を起こしてきた日本赤軍ですが1980年代後半以降には新規の支持者や支援者の獲得困難、またイスラエルや西側諸島と対立していた政府や各国の反政府組織からの資金協力や活動提携がほぼ途絶えたこともあり1990年代に入ると「日本赤軍」としての活動はほとんど行えない状況となります。

しかしその間も逃亡を続けながら1980年代中盤にかけていくつかの武装ゲリラ活動をアジア諸国やヨーロッパ諸国を舞台に引き起こしました。

赤軍が関係していると言われる事件が4つあります。

日本赤軍 ジャカルタ事件(インドネシア)

1986年5月14日、ジャカルタのアメリカ大使日本館と、大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館前の車が爆破されました。

そして事件後に東京、ロンドン、パリ、ローマなどの報道機関に「反帝国主義国際旅団」からの犯行声明が届いたのです。

現場検証では発射元のホテルの部屋から日本赤軍メンバーの城崎勉の指紋が採取されたことで、日米捜査当局は日本赤軍の犯行と断定。

城崎勉は1996年9月に潜伏先のネパールで身柄を拘束されて、アメリカに移送された後、アメリカでの裁判で、懲役30年の判決を言い渡され、テキサス州ボーモント連邦刑務所に服役します。

出所後、国際手配中だった城崎勉は日本に強制送還され、成田国際空港内で日本大使館に対するロケット弾発射事件に関与したとして殺人未遂と現住建造物等放火未遂容疑の容疑で逮捕されます。

その後、殺人未遂罪で起訴され、現住建造物等放火未遂については不起訴処分となりました。

日本赤軍 三井物産マニラ支店長誘拐事件(フィリピン)

1986年11月15日午後3時ごろ、三井物産マニラ支店長である若王子信行さんが、ゴルフ帰りにフィリピン共産党の軍事組織、新人民軍・通称NPAのメンバー5人に誘拐されました。

1987年1月16日、三井物産本社や報道各社に脅迫状や写真、テープが届き、写真には誘拐された支店長が虐待を受けているように見え、テープには弱弱しい声が吹き込まれていました。

その後数回脅迫状が届き同年3月31日の夜にケソン内の教会脇で解放されます。

解放された支店長にけがはなく、写真やテープは犯人の偽装であることがわかります。

このことから、この事件は身代金目的の誘拐事件とみられており、1991年に逮捕された犯人たちは日本赤軍の協力があった旨の証言をしていますが、赤軍はこれを否定しており、真相は不明です。

日本赤軍 ローマ事件(イタリア)

1987年6月9日、ベネツィアサミット開催中、ローマのアメリカとイギリス大使館にロケット弾が発射された他、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」名で声明が出されました。

レンタカーから奥平純三の指紋が検出され、イタリア甲南当局から奥平純三の犯行と断定されます。

日本赤軍 ナポリ事件(イタリア)

1989年4月イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人とアメリカ空軍兵士ら5人が亡くなりました。

この事件も日本赤軍の関与があったと言われていますが、日本赤軍はこの事件の犯行を否定しています。

希望の21世紀設立と日本赤軍の解散宣言

1993年9月、パレスチナ暫定自治合意が達成されたことで中東和平が進みレバノンにあった赤軍の拠点が閉鎖に追い込まれます。

これにより赤軍のメンバーは他の中東地域や南米、東欧、アジアに散らばったそうです。

その後逃亡中のメンバーがルーマニアやネパール、ボリビアなどで次々に身柄を拘束され、国際テロ組織に対する世界的な包囲網も広がったことで、南米やアジアでも活動の場を失いました。

これにより組織は完全に壊滅状態に追い込まれたのです。

2000年11月、ついに日本赤軍最高幹部である重信房子が、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で大阪府警警備部公安第三課によって逮捕されます。

その際に押収された資料により、重信房子が逮捕される危険を冒してまで日本に帰国していたのは、日本での武力革命を目的とした組織を立ち上げるためだったことが判明。

実際に活動の覆面組織として「希望の21世紀」を設立していたことと、またそれを足掛かりとして社会民主党との連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられました。

「希望の21世紀」は警視庁と大阪府警察の家宅捜索を受けますが、日本赤軍との関係を否定しており、同時に「希望の21世紀」の関連先として社会民主党区議自宅なども捜索を受けましたが、社会民主党も赤軍との関係を否定しています。

逮捕後の2001年4月、重信房子は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行い、正式に解散を宣言しました。

日本赤軍解散宣言無効宣言とムーブメント連帯

一方その直後に逃亡中の坂東國男と大道寺あや子は日本赤軍解散宣言無効宣言を発表し、組織の存続を訴えています。

赤軍の国内支援団体の後継組織として「ムーブメント連帯」が設立され、現在も設立当時からの支持者などを中心に少数ながらも支持者がいるとみられています。

重信房子は産経新聞のインタビューでこれまでの活動を振り返り、「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気が付いていなかった。大義のためなら何をしてもいいという感覚に陥っていた」と述べている一方で、テルアビブ空港乱射事件をリッダ闘争と呼び、殺人事件への見解は革命の一環であるとの考えを変えることはありませんでした。

こうして世界を巻き込み多くの犠牲を出してきた日本赤軍は解散となりましたが、現在でも7名の国際手配犯は逃走を続けたまま解散から19年の月日が流れました。

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