岩淵熊次郎

共同体としての色が強かった村社会には、かつて村八分という制裁法が存在していました。
村の秩序を守れない者は、葬式と火災を除く、すべての交際が絶たれるというものです。

鬼熊事件は、この村八分の対極とも言えるケース。
撲殺・刺殺・放火のうえに4人への傷害罪、これだけの罪を重ねてもなお、村人たちが最後まで庇い続けた殺人犯の話です。

 

村社会における岩淵熊次郎とは

岩淵熊次郎千葉県香取郡にあった久賀村(現・多古町)は、1926年(大正15年)に、「鬼熊事件」とよばれる殺人事件の舞台として注目を浴びた村です。
犯人は、岩淵熊次郎(いわぶちくまじろう)という荷馬車引きの男。
小学校を4年で中退したため、自由に読み書きもできなかったと言われています。
12歳で村の大地主のもとで小作人として働き始め、27歳からは、荷馬車引きへと転職。
伐採された材木を町へと運び、町で肥料を仕入れ村まで運ぶ、そんな毎日を過ごしていました。

貧しい生まれで、学がない。
事件が起きるまでは、さぞ村の鼻つまみ者だったのだろうと想像される出自です。
しかし、イメージとは裏腹に、村社会における熊次郎は人気者。
面倒見がよく、困っているものには手を差し伸べることを厭わない人柄だったようです。
老人や病人といった弱い者への手助けはもちろん、馬車引き仲間への配慮も十分。
酒を振る舞い、新人への指導を行い、荷馬車引きの中では顔役として人望を集めていました。
仕事ぶりも真面目で、雨や雪の日でも、荷馬車を引いて町へと向かう熊次郎。
「熊さん」の愛称で村人から好かれ、2升の酒を飲み干す酒豪で、力持ち。
米俵2表(1俵60Kg)をヒョイと担ぐ姿も人気のようでした。

しかし、そんな熊次郎にも、たった一つだけ欠点ありました。
妻と5人の子どもに囲まれながら、よその女にフラフラと手を出す、女関係のだらしなさ。
人妻であろうが惚れ込み、金銭を貢ぎ、袖にされても懲りることがない。
熊次郎を殺人へと駆り立て、村ぐるみで殺人犯を匿う事件の、大本となった欠点です。

 

人妻「おはな」に入れあげる

女関係で、たびたび火遊びをしていた熊次郎は、34歳のときに「おはな」という女性と出会います。
夫持ちの28歳で、借金のカタに旅籠に売られてしまったおはな。
憐れみの気持ちが、惚れた女のものへと変わるのに、時間はかかりませんでした。

熊次郎は、持ち前の面倒見の良さを発揮し、おはなの借金を肩代わりすることを決心します。
借金返済に必要な額は、50円。
当時の大卒の初任給に匹敵する金額でした。
家族6人を養い、慎ましい暮らしをしていた熊次郎が、ポンと出せる金額ではなかったのは確かです。
唯一、自由にできる財産であった商売道具の馬を売却し、金を工面しました。

 

おはなを囲う

熊次郎は、馬を売った金を惜しげもなく、おはなに渡します。
また、それだけに留まらず、おななを夫のもとから引き離し、囲いこむことにしました。
しかし、別宅を準備するほどの金銭的余裕がなかったためか、知人のツテを頼ります。
そして、土屋忠治夫妻が経営する旅籠に、おはなを住まわせるように取り計らったのです。

とつぜんの頼みを、始めは快く引き受けていた土屋夫妻ですが、やがて状況が変わってきます。
毎日毎夜、おはなを訪ねて熊次郎がやってくるのです。
さすがに女を囲うための手助けが負担になったのか、土屋夫婦も熊次郎の来訪を拒むようになり、最終的には仲違いしてしまいます。

土屋夫妻との関係が険悪になったため、おはなも旅籠住まいをやめざるをえませんでした。
再びツテをたどり、おはなは、荒物商を営む岩井長松の家へと移っていきました。
ここでも熊次郎は、夜になるとおはなを訪ねてやってきます。
しかし、土屋夫妻のときとは異なり、岩井長松は、頑としておはなとの逢瀬を許してはくれませんでした。
囲った女に会おうとしては、門前払いを食らう。
そんな日が1週間ほど続くうちに、おはなは、夫のいる自宅へと帰ってしまいます。
商売道具を売ってまで、借金の返済を助けた女に、すげなく見捨てられてしまったのです。

 

騙されていたことを知る

助けた女の裏切りに、落ち込む熊次郎。
そんな現状に追い打ちをかけるかのように、厳しい現実を知ることになります。

じつは、土屋夫妻と岩井長松は、おはなの夫とグルだったのです。
熊次郎を助けるつもりはなく、家を出たおはなを、夫のもとへと返すために共謀していました。
世間の常識を考えると、当たり前の行動であったのかもしれません。
さらに悪いことに、おはなの借金問題までもが、嘘だったことが判明。
おはなが旅館に借金をしていた事実はなく、作り話で50円もの大金をせしめた悪女という、風の噂が聞こえてきたのです。

惚れた女に騙され、頼った相手に裏切られる。
さすがの熊次郎も、怒りを抑えきれず、おはなとその夫、土屋夫妻や岩井長松にも、根深い恨みを抱いていくようになりました。

 

愛人「おけい」にのめり込む

おはなとの出来事で傷心状態にあった熊次郎ですが、小料理屋で働く「おけい」と出会ったことで持ち直します。
おはなより若い23歳で、色っぽいおけい。
身持ちが硬いとは言い難く、口説いてくる熊次郎にすぐに身体を許し、愛人関係となっていきました。
若い娘に翻弄されながら、機嫌をとるために、せっせと貢ぐ熊次郎。
高価な反物から、贅沢品であった米など、贈り物が途切れることはありませんでした。
おはなとの記憶を振り払うかのように、おけいにのめり込んでいきます。

それほど裕福ではないうえに、商売道具の馬までも売り払った熊次郎には、金が不足していました。
金を工面するために、ついには、詐欺に手を染めてしまいます。
売ってしまったはずの馬を、あたかも存在するかのように見せかけ、80円を前払いさせることに成功したのです。
おはなに金を騙し取られ、悔しい思いをしたはずの熊次郎が、騙し取る側にまわる。
熊次郎の人生が狂い始めた瞬間だったのかもしれません。

 

おけいの裏切りを知る

熊次郎が騙し取った80円の金は、すべておけいの手に渡ります。
それほどまでに、のめり込んでいた女ですが、村での評判は決して良いものではありませんでした。
熊次郎とすぐに肉体関係を持ったように、「身持ちの悪い女」というのが、おけいに対しての評価でした。

関係を持った男は数多く、小料理屋の客に、次々と手を出していたのが事実です。
また、菅原寅松という本命の男と、所帯を持つ話も出ていたと言われています。

「34歳の熊次郎と、25歳の寅松では、どちらを選ぶかは決まっている」「熊さんは、また女に騙されている」というのが、村人たちの認識でした。
金を貢がせるだけ貢がせたあとは、捨てられてしまうのではと心配されていたのです。

そんな村人の心配が現実となったのが、大正15年の6月25日のこと。
酒をひっかけ、良い気分の熊次郎が、おけいを驚かせようとして、こっそりと家の中の様子を覗いたことがきっかけでした。
部屋からもれてくる、艶めかしい声。
布団の中で、あられもない姿で、寅松と抱き合うおけいの姿を発見してしまうのです。
眼の前で、何が起こっているのかを理解した瞬間、熊次郎の中で溜まりに溜まっていた何かが爆発します。
怒りに我を忘れ、扉を蹴破り、おけいを引きずり出す熊次郎。
髪を掴んで振り回し、拳を振り上げます。
寅松は、裏口から逃亡し、おけいは殴られながらも、命からがら村の駐在所まで逃げこむことができました。

熊次郎の怒りに晒されながらも、幸い、この夜は命を落とすことにはならなかったのです。
警察の対処としても、熊次郎の心情を慮ったのか、厳しい処罰はなされずに終わりました。

 

復讐の念に駆られる熊次郎

一度、心の箍が外れてしまった熊次郎は、この日から復讐の念に駆られることになります。
怒りを隠そうともせず、「寅松を殺してやる」と、村人たちの前で吹聴する日が続きます。
これに危機感を覚えた寅松の父親は、駐在所の巡査を間にはさみ、なんとか事を収めようと説得を続けますが、熊次郎の怒りが静まることはありませんでした。
そればかりか、熊次郎とは手を切り、寅松と本格的に所帯を持つよう、おけいに勧める父親にまで恨みを募らせることになります。

冷静になって考えてみれば、妻子がいる男よりも、独り身の男の嫁になることは当然のことですが、その判断さえできない状態に追い込まれていたのでしょう。
熊次郎の精神状態は、日に日に、危険なものへと変貌していきました。

熊次郎が具体的な行動に出たのは、7月7日のこと。
畑仕事をしていたおけいを強引に連れていき、約半日ほど軟禁状態で、寅松との関係を問い詰めました。
興奮する熊次郎に対し、愛情のカケラも見せない冷めきったおけいの態度。
話し合いは、平行線のまま進み、ついには堪忍袋の緒が切れた熊次郎が包丁を手にとります。
心配して様子を見にきた、おけいの祖父が気づき、駐在所に連絡。
なんとか事なきを得ますが、さすがに熊次郎の行動は見逃されず、逮捕されてしまいます。

ここで、寅松への脅迫、おけいへの暴行、さらに詐欺で馬の代金を騙し取った罪が明るみに出ます。
当然ながら起訴され、懲役3ヶ月の判決がくだされることに。
しかし、執行猶予つきだったため、懲役には至らず、そのまま釈放という流れとなりました。
罪状に比べ、驚くほど軽い刑ですんだのには、熊次郎の以前の雇い主であった大地主の存在がありました。
県会議員にまで昇りつめたことがある元雇い主が、いろいろと便宜を図ってくれていたのです。
これが大きな間違いであったと証明されるのは、裁判より1ヶ月後のことです。

 

ついに手を下す

8月6日、熊次郎の姿は、裁判で便宜を図ってくれた大地主宅にありました。
釈放できるよう、取り計らってくれた礼をするために、訪問していたのです。
釈放を喜びあい、大地主に酒をふるまわれるうちに、おけいへの詫びも必要だろうと考えはじめます。

警察に拘留されたことで頭も冷えたのか、静かな心で、おけいの家へと足を向けます。
8月20日、熊次郎の突然の訪問を受けたおけいは、包丁を持ち出された恐怖に身を震わせました。
しかし、憑き物が落ちたように頭を下げる姿に安心したのか、謝罪を受け入れます。
もとは、良い仲までいった二人のこと、家に招き入れ酒を酌み交わしました。
このまま何事もなければ、熊次郎の人生も、穏やかなものとして終わったのかもしれません。

運命のいたずらか、事件の発端となった寅松が、おけいを訪ねてきてしまったのです。
自分を殺すとまで吹聴してまわっていた男が目の前にいる。
寅松は、きびすを返して帰ろうとしましたが、熊次郎が呼び止めます。
迷惑をかけたことを、酒を飲んで水に流そうと誘ったのです。
下手に断って機嫌を損ねてはいけない、そう判断した寅松は、酒を酌み交わすことにしました。
穏やかに見える和解の酒の席は、長くは続きませんでした。

酔いがまわるにつれ饒舌になってきた寅松が、おけいとの関係が深まっていることを、ほのめかしてきたのです。
自分は留置所で反省していたのに、この二人は、何も変わっていない・・・そればかりか、この後も、二人きりで夜を過ごそうとしている・・・そう察した熊次郎の中に、再び怒りの炎が燃え上がります。
そして、とつぜん、火山の噴火のごとく爆発しました。
真っ先に標的にしたのは、自分を騙した憎い女、おけい。
手にした酒をかなぐり捨てて、襲いかかりました。

部屋中を引きずり回し、薪で頭に一撃、二撃と、溜まりに溜まった怒りを叩きつけます。
絶叫を聞きつけ、おけいの祖母がやってきたときには、ボロ雑巾のようになった孫を殴り続ける熊次郎がいるだけでした。
白い頭蓋骨が見えるほど無残な姿となった孫を助けようと、祖母は熊次郎にしがみつきますが、反撃され気絶してしまいます。
その後、どれほど殴り続けられていたのでしょうか、おけいは熊次郎の手によって殺されてしまいました。

おけいの死を見届けた熊次郎は、寅松の存在を思い出します。
しかし、情けないことに寅松は、おけいが殴られているスキをみて、逃亡。
おけいの家から、少し離れた場所にある農家に駆け込み、助けをもとめていたところでした。
寅松も殺そうと、しばらく村をさまよっていた熊次郎ですが、標的が見つかりません。

さまよい歩くなかで、脳裏に浮かぶのは、これまで憎しみを募らせてきた相手の顔でした。
馬を売った金を騙し取った「おはな」おはなの夫と共謀して自分を騙した「土屋夫妻」と「岩井長松」自分と手を切るようおけいを説得していた「寅松の父親」自分を留置所に入れた駐在所の巡査たち・・・

血に酔った寅松は、憎い相手を片っ端に殺してやろうと、夜の闇のなかを進んでいきます。

 

標的を探しさまよう

復讐相手を探す熊次郎が、まず向かった先は、寅松の父親の家でした。
門前で家を睨みつけたあと、おもむろに石油をぶちまけ、火をつけました。
木造家屋が主だった時代のこと、すぐに炎がまきあがり、あたりは火の海に。

響きわたる半鐘の音に、消防団がかけつけますが、熊次郎が家へと寄せ付けません。
一家を丸焼きにしてやるのだと喚き散らし、クワを片手に、近づく者を叩きのめしていきます。
米俵2俵を担ぎ上げるほどの怪力が、思わぬところで牙をむきました。
寅松の父親と家人は、命からがら火の手を逃れることができましたが、自宅は全焼。
崩れ落ちる家をあとに、熊次郎は、次の標的のもとへと向かっていきます。

次の復讐相手と定めたのが、駐在所の巡査たち。
自分を留置所に送り、おけいと距離をとらせたと恨みを抱いていたのです。
しかし、駐在所に忍び込むも、中は無人の状態でした。
熊次郎の起こした騒ぎを聞きつけ、出動していたのかもしれません。
ついでの手土産とばかりに、壁にかかっていたサーベルを盗み出し、標的をもとめて再びさまよい始めます。

さまよい歩く熊次郎は、視線の先に岩井長松が営む茶屋を見つけます。
おはなの夫と共謀し、逢瀬のジャマをしていた人物です。
店先では、間の悪いことに、長松が外へと出てきている最中でした。
ここぞとばかりに襲いかかり、サーベルで胸をひと突き。
なんとか逃れようともがく長松に、追い打ちとばかりに、さらにひと突き。
完全にとどめを刺された長松は、熊次郎の二人目の犠牲者となってしまいました。

その頃になって、ようやく家族の存在を思い出したのか、熊次郎は自宅へと戻っていきます。
二人もの人間を殺め、極度の興奮状態にあった熊次郎。
血まみれのサーベルを握りしめたまま妻に対して、おはなや寅松、巡査たちを殺すと宣言します。
その声を聞きつけ、自宅へと乗り込んできたのが、駐在所の巡査の一人でした。
通報を受けて、熊次郎の自宅近くで見張りをしていたのです。
しかし、一人では怪力の熊次郎を取り押さえることができず、返り討ち。
命を落とすことにはならなかったものの、重症を負います。

警察の包囲が始まっていることに気づいた熊次郎は、そのまま自宅を飛び出し、山の中に潜伏してしまいます。
一晩のうちに、2名を殺し、4名に重症を負わせ、家を一軒全焼させた男が、野放しとなってしまったのです。
殺人宣言を残して山へと潜伏した熊次郎を、警察が見逃せるはずもなく、捜索隊が結成されます。
警官のみならず、消防団までを集結させ、熊次郎への追跡が始まりました。

熊次郎は、警察の威信をかけた捜索をあざ笑うかのように、包囲をすりぬけていきます。
9月12日には、村へと戻ってきていた熊次郎を、警官が発見。
取り押さえようと試みますが、ここでも返り討ちにあい、犠牲者の数が増える結果となりました。
潜伏期間中に、熊次郎が殺害された犠牲者の数は3名。
うち2名は、警官だったと言われています。

 

山での潜伏を助ける村人

熊次郎の潜伏期間は、一ヶ月以上にもおよぶ長いものでした。
捜索のために動員された警官の数は、約3万6千人。
この他にも、地元の消防団や青年団からも2万人が派遣されていました。
夏から秋にかけての季節だったため、食料や寒さなどに悩む必要がなかったとはいえ、これだけの人目を掻い潜っての潜伏は異常でした。

長期間にわたって潜伏できた理由の裏には、村人の協力がありました。
もともと、熊次郎に対する村での評価は、「弱い者に優しい」「面倒見が良い」「働き者」といった好意的なものでした。
対して、犠牲者となったおけいや長松は、「身持ちの悪い女」「色じかけを利用して商いをする」など、村人からも敬遠される存在だったようです。

また、警官の殺害に関しても、「嫌味なお役人をやっつけてくれた」と、受け止められていました。
当時の警官は、庶民の味方ではなく、弱い者いじめをする存在として煙たがられていたのです。
村人たちは熊次郎のことを、「村の鼻つまみ者を排除してくれたうえに、偉そうな警官もこらしめてくれた英雄」と感じていたのでしょう。

熊次郎に助けられた人、事件を快く思っている人などが、熊次郎のために食事を準備したり、こっそりと寝床を提供したりと暗躍していました。
村社会の結束の強さゆえのことでしょうか、村ぐるみで熊次郎を匿い、警官に嘘の情報を提供してまで助けていたのでした。

 

新聞記者さえ味方につける

当時の新聞記事地方の村で起こったセンセーショナルな殺人事件。
加えて、山中に潜伏し、なかなか捕まらない殺人犯。
新聞記者が、特ダネのニオイを嗅ぎつけて、村に押し寄せるまでに時間はかかりませんでした。

毎日のように、新聞に掲載される事件の概要。
撲殺、刺殺、放火と、残虐な犯行に手を染めた熊次郎を「鬼熊」と称して発表しました。
「鬼熊事件」の名称の由来となった名前です。

また、世間の注目も高まり、「鬼熊狂恋の歌」という曲が生まれるほど、異常な熱狂を巻き起こしました。
あまりの報道陣の多さに、村は観光地のような賑わいをみせるほどでした。
事実、食事処や旅館業をはじめとした村での商いは、多くの臨時収入を得たと言われています。
村が潤ったことも「熊次郎のおかげ」と、村人の評価は高まる一方だったようです。
そのため、新聞記者からの取材にも、村人が熊次郎を悪くいうはずもありませんでした。
どれだけ熊次郎が病人や貧しい者を助けてきたのか、どれほど面倒見がよかったのか、話を聞くにつれ、記者の心象も熊次郎に傾いていきました。

紙面での熊次郎の表記が、「鬼熊」から「熊さん」へと変わったことが、記者の心象を如実に語っていたと言えます。
殺人犯に、親しみをこめて「さん」がつけられたケースは、鬼熊事件だけではないでしょうか。

東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者にいたっては、9月25日に、村人の手引きで熊次郎との面談も果たしています。
警察には極秘で行われた面談には、場を設けてくれた村人への謝礼金として50円が支払われたと言います。
ここで熊次郎は、実の兄、村の消防団長、新聞記者や村の面々から、自首するように進められますが、ついに首を縦にふることはありませんでした。

代わりに、記者に「村人に大声で謝って死にたいと思う。
しかし、怒鳴った程度では全員に声を届けることができない。
かわりに、自分の気持と無念を文字に残して、世間の人々に伝えてほしい」という言伝を残しています。

 

自害して果てる

当時の新聞記事熊次郎が自首を拒否した理由には、記者との面談時には、すでに自殺を考えていたためでした。
面談の3日後には、自殺を決意し、9月29日より行動を起こしました。
しかし、首吊りを試みるも失敗。
頸動脈をかき切ってみても死にきれず、いたずらに時が過ぎていきます。

9月30日には、兄や村人に頼み、ストリキニーネという毒をいれたモナカを入手。
先祖代々の墓までおもむき、村人や記者が見守るなかで食したと言います。
念には念をいれたのか、再び頸動脈を傷つけてまでの自害でした。

死亡時刻は、午前11時20分。
後の検死で、毒が直接の死因であったと証明されています。
こうして、世間の注目を浴びた「鬼熊事件」は終息していくかのように見えました。

しかし、村人と新聞記者の行動が明るみに出たことで、自殺幇助(じさつほうじょ)の嫌疑がかけられることに。
警察に知らせることなく、殺人犯を匿っていたことも、当然ながら問題とされました。
記者と村人は裁判にかけられることになり、毒入りの菓子を与えたことは、「殺人」となるか「自殺幇助」となるかが論点となったようです。

1927年(昭和2年)の2月7日に下された判決では、「自殺幇助」という結果に終わりました。
村人の3人に、執行猶予つきで懲役3~6ヶ月が言い渡されただけで、熊次郎を匿っただけの村人は不問とされ、罪にはならなかったといいます。

 

まとめ

罪状だけを聞くと、恐ろしい殺人鬼である熊次郎。
しかし、村人に愛されたことから、潜伏から自殺まで、手厚いサポートを受けていました。
徹底的に交流を絶つ村八分とは対極に、殺人犯となっても村人から助けられた犯人の話でした。

 

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