阿部定事件~殺害後、切断した局部を持ち去った女~【動画あり】

男女の痴情のもつれによる事件。
この場合、女性の被害者を連想する方も多いのではないでしょうか。
とあるDV被害者の支援団体が発表した検証映像では、公共の場で男性が女性から暴力を「受けた場合」、周囲の人間は笑うばかりで取り合わないと訴えています。
しかし、男性も、女性からの攻撃で被害者となり得るのです。
阿部定事件のように。

 

阿部定事件とは

東京市荒川区で、1936年5月18日に起きた事件。
待合旅館の二階で、泊り客の男性の死体が見つかり、世間に大きな衝撃を与えました。
発見時の男性は全裸で、局部が切断されていたことが原因です。

また、被害者の左ももと布団には、「定 吉二人」「定 吉二人キリ」と書かれた血文字。
さらに、刃物で左腕に刻みつけられたとおぼしき「定」の文字が、この事件の特異性を物語っていました。

死体発見前に、被害者の連れの女が行方をくらましていたことから、警察は捜索を開始。
この女こそが、「阿部定」。
犯人の女性のフルネームから名付けられた事件は、日本中を熱狂に巻き込んで行くことになるのです。

 

事件の前日譚

阿部定1905年5月28日に、東京市神田区(現東京都千代田区)の裕福な畳店の娘として生まれた阿部定。
幼少期より、美少女と評判で、踊りや三味線などのお稽古ごとも嗜んでいました。
しかし、15歳のときに、慶応大学の学生に強姦され泣き寝入いりすることに。
この出来事をきっかけに、「どうせ嫁にいけない身体なら」と自暴自棄になり、いろいろな男と遊びあるくようになったと言われています。

家の金を持ち出し、乱れた生活をおくる娘に激怒した父親は、定を女衒(娼妓として身売りさせる仲介人)に売ってしまいます。
「そんなに男が好きなら娼妓になってしまえ」というのが、父親から投げかけられた言葉でした。
18歳で、座敷で三味線を弾き、客に身体を売る風俗の世界に入っていくのです。
その後、店を転々としながら、26歳となるまで娼妓を続けています。

 

運命の出会い

娼妓を辞めた定は、中居や女中の仕事をしながらも、男と関係を持つ日々を送っていました。
1936年2月、交際していた男の紹介で、東京の中野にあった鰻料理店で女中として働き始めます。

このとき定は32歳。
「田中かよ」の偽名を使い、雇われ先で運命の出会いを果たします。
料理店の主人の名前は、「石田吉蔵(いしだきちぞう)」、のちに阿部定事件の被害者となる42歳の男です。
ひとめで惹かれ、不倫関係となった二人。
人目を忍んで情事にふけっていましたが、やがて妻の知るところとなります。
道ならぬ恋に燃え上がっていた定と吉蔵は、そのまま店を出奔してしまいました。

 

出奔から事件に至るまで

何もかもを捨て、料理店から出奔した二人は、待合旅館を転々としながら愛欲にふける日々を過ごします。
何もせず、ただ求めるままに、昼も夜も抱き合うだけの生活。
定の心に、「この男を独占したい」という暗い考えが芽吹き始めます。

また、二人の行為の最中に、「首を締められながらの行為は快感が増すらしい」と石田が言い出したことも、起因となったようでした。
1936年5月12日、ふざけ半分で石田の首を締めながらも、殺して一人占めしようと決心したと言います。
数日後に、肉切り包丁を購入し、部屋の額縁の後ろに、そっと忍ばせる定の姿がありました。

5月16日、首を締めながらの行為に没頭。
絶頂に達する石田の首を、腰紐で締めたり緩めたりしながら、快楽にふけっていました。
とちゅう、我を忘れかけた定は、危うく石田を殺しかけるほど夢中で締めつけていました。
この日は、名前を呼ばれ、我にかえったことで、石田は死ぬことはありませんでした。
しかし、顔はうっ血し、首にはアザと痛みが残りました。
「本当に殺されるかと思った・・・」と話しながらも、石田は定を咎めることはしませんでした。

翌日、定は外出し、銀座・資生堂に赴きます。
そこで、アザと痛みを和らげるための薬に加えて、睡眠薬(カルモチン)を買い求めたのです。
旅館に戻った定は、石田の首を手当しながら、良く眠れるようにと睡眠薬を30錠ほど飲ませます。
石田は、「こんど首を締めるのなら、痛いから途中でやめてはいけない」と告げ、眠りについたと言われています。

 

石田を一人占め

定が石田を手にかけたのは、5月18日の朝6時ごろ。
まどろみの中にいた石田の首に、赤い腰紐を巻きつけて、力いっぱい締めあげました。
最中に石田が目を覚ましたもの、力を抜くことなく締め続け、ついには息の根を止めてしまいます。

阿部定事件

石田の死を確認する定。
ふっと重い荷物が消えたような、楽な気持ちになりました。
しかし、これだけでは、まだ足りない。
このままにしておけば、誰かに触られてしまうと思った定は、額縁に隠した包丁を手にとり、石田の局部を切断します。

切り取ったモノを紙で大切に包み、ふところに仕舞い込んだ後は、指に血を塗りつけます。
左のももに、「定 吉二人」。
布団のシーツに「定 吉二人キリ」の血文字。
そして最後に、自分だけのものなのだと主張するように、「定」という文字を左腕に刻み込んだのです。

 

石田の死が発覚

新聞記事やるべきことを終えた定は、二人が滞在していた待合旅館の「桔梗(ききょう)の間」を後にします。
午前8時に、旅館の人間に「お菓子を買いに行ってくるが、連れの人はよく寝ているので、午後になるまで起こさないでほしい」と言い残し、姿をくらましたのです。

お菓子を買いに行ったにしては、戻りが遅い定。
連れの男は、午後になっても起きてきません。
不審に思った女中が、部屋の中に呼びかけてみますが、返事がありません。
何かあったのではと、部屋の中に入ったところ、凄惨な姿になった石田を発見してしまいます。

血まみれの現場に、局部のない男の扼殺体。
布団や身体に残された血文字。
姿をくらました謎の連れの女。
いまだ発見されない局部。
マスコミがこぞって報道するには、話題の事欠かない事件となりました。

この前代未聞の事件に、庶民は興味をかき立てられ、異様な熱狂に包まれていきます。
警官が捜索する、「阿部定」を見かけたと、あちこちの繁華街からの通報が相次ぐ事態となりました。
「定ではないか」と、ウワサが流れるたびに、町はパニックに。
後に、「阿部定パニック」という名称がつけられるほどの騒ぎでした。

 

警官に名乗りをあげる定

世間が謎の女の行方に熱中している合間に、定は「大和田 直」という偽名で、品川駅近くの旅館「品川館」に滞在。
「阿部定パニック」が起こっている間にも、買い物をしたり、映画を見にいったりと、優雅に過ごしていたようです。

しかし、その生活も長く続くことはありませんでした。
定の捜索にあたっていた刑事らは、「大和田 直」という身元不明の女がいることを突き止めます。
偽名を使っているのではと、調査のため、5月20日に「品川館」へと向かいました。

身元不明の女の部屋へ入ると、真っ昼間にもかかわらず、ビールを片手にした女が出迎えます。
「こんな時間から飲んだくれて・・・」と、顔をしかめる刑事に、女は口を開きます。
阿部定逮捕「誰かお探しですか?・・・安倍定とか?」
そして、さらりと告げたのです。
「私がお探しの阿部定ですよ」

あまりにも堂々としていたため、戸惑う刑事たち。
その姿を目にしながら、定は、ふところからハトロン紙の包みを取り出します。
中から転がり出たのは、石田の局部。
刑事らの顔は、驚愕の色に染まりました。

逆につきつけられた、動かぬ証拠を前に、阿部定を逮捕。スクープを聞きつけた各新聞社は、号外を出し、世間に大々的に発表します。
「妖女ついに捕まる」「ええ、私はお尋ね者よ」「帯の間に例の包み」などの煽り文句が、見出しを彩りました。

 

事件の後日譚

猟奇的な殺人事件を起こした定には、逮捕後、精神鑑定が行われました。
鑑定を行ったのは、東大の松村常雄教授。
その結果、サディズムとフェチズムといった淫乱症といった結論が出されました。

定は、殺害の理由として「彼のすべてが欲しかった」と供述。
局部を切断した理由についても「私の肌から離したくなかった」「他のどんな女にも触らせたくなかった」と話しています。

定の事件は、痴情のもつれと判断され、1937年に懲役6年の刑が言い渡されます。
収容先は、栃木刑務所。
通常であれば汽車で移送されますが、阿部定事件が有名になりすぎたため、車での移送を余儀なくされました。

刑務所では、模範囚として過ごしますが、世間は彼女を忘れたわけではありませんでした。
収容されているにも関わらず、結婚の申込みをしたためた手紙が400通。
映画会社などからも、スカウトの話が来ていました。
事件の現場となった待合旅館や、逮捕された品川館までにも、好奇心を抑えられない見物客が押し寄せ、大繁盛するほどでした。

世間の注目を集めた阿部定は、1941年に恩赦を受け、5年で出所。
名前を「吉井昌子」と改め、新たな人生を始めるも、「阿部定事件」のイメージはついてまわることになります。
結婚をしても過去がバレて破局。
劇団を旗揚げして、自らが主演の阿部定事件を巡業。
阿部定の知名度を利用した飲食店の従業員。
バーの経営。
さまざまな境遇で転々としながら、余生を過ごします。
定の足取りは、1971年に千葉県の市原市のホテルで働いていた時期を最後に途絶えています。

阿部定本人がテレビに出演した動画がありましたので掲載させていただきます。

 

阿部定事件~殺害後、切断した局部を持ち去った女~ まとめ

好いた男を手にかけ、局部を持ち去った阿部定。
石田の墓前には、定の足取りが途絶えたあとも、毎年のように花が届けられました。
花が届かなくなった1987年を境に、定は死亡したのではないかと言われています。
殺すほど渇望した石田への愛。
死後に再会を果たしているのかもしれません。

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あかん店長

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今後も話題のネタを提供していきますので当店で珈琲を飲みながらくつろぎのひと時をおすごしいただけたら幸いです。
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