DDヒューム

「媒介・中間」を意味する言葉、ミディアム。

オカルト的な意味では、「霊とこの世を繋ぐ者」「霊媒師」として知られています。

心霊現象が一大ブームとなった19世紀に、最も有名なミディアムとして名を馳せた「ダニエル・ダングラス・ヒューム」の人生を紐解いてみたいと思います。

 

ダニエル・ダングラス・ヒュームの能力

ddhomeどの時代でも、心霊現象や超常現象は、人々の興味を引いてやまないものです。

特に19世紀の欧米は、霊魂の存在を信じる「心霊主義」の考えのもと、一般人から上流階級に至るまで心霊現象が一大ブームとなった時代でした。

ダニエル・ダングラス・ヒューム(Daniel Dunglas Home)も、そんな時代に頭角を表した一人。

生涯にわたって1500回以上の交霊会を行い、数々の心霊現象や超常現象を披露しました。

「霊が行っているものだ」として、披露した現象には、さまざまな種類がありました。

重いテーブルが部屋を縦横無尽に移動し、物が動くポルターガイスト現象はもちろんのこと、呼び出した霊の手を参加者と握手させることも可能でした。

手も触れずに楽器を演奏させることや、真っ赤に焼けた石炭を素手で扱うこともできたと言われています。

特に重要視された能力は、「空中浮遊」

「空飛ぶ紳士」という異名が与えられるほど、物議をかもした現象です。

ダニエル・ダングラス・ヒュームが、ミディアムとして後世にまで名を残した理由は、研究者の誰一人として、トリックの証明ができなかったという点です。

通常、薄暗い場で行われそうな交霊会でさえ、明るい部屋で行われ、トリックが入り込む余地がなかったと言われています。

交霊会に参加した、多くの著名人でさえ認めざるを得なかった能力。

さまざま研究者が、トリックを暴こうと果敢に挑戦するも、目的が果たされることはありませんでした。

 

少年時代から見えた「能力の片鱗」

ヒュームが誕生したのは、1833年のこと。

スコットランドのエジンバラ市で生まれますが、家庭の事情により、幼少期に伯母に引き取られアメリカへと渡ります。

幼いころから能力片鱗を見せ始め、ヒュームが引き取られて間もなく、伯母の家でポルターガイスト現象が起こるようになりました。

ひとりでに床を滑る家具、あたりに響き渡るラップ音。

信心深い伯母一家は、悪魔憑きの子どもを引き取ってしまったと、存在を疎んじるようになりました。

さらに、少年時代のヒュームを語るうえで、避けては通れないのがエドウィン少年とのエピソードです。

ヒュームと意気投合していた友人で、遠い場所へと引っ越す直前に、「お互い、死ぬようなことがあれば連絡をしよう」と、約束を交わしていたと言われています。

その約束が現実とものとなったのが、1846年のこと。

真夜中に目覚めたヒュームは、自分のベッドの脇に立つ、友人の姿を目撃します。

エドウィン少年は、指先で空中に三回ほど輪を描き、消えてしまいました。

「これは、友人が三日前に死んだことを伝えにきたのでは」そう考え、後日確認したところ、事実であったことが分かりました。

1950年には、実の母親が亡くなり、ヒュームの能力は更に磨きがかかります。

家の中で起こるポルターガイスト現象や霊視の力などが、世間の話題となっていった時期です。

そして、ヒュームを頼って、失くし物や行方不明者探しの相談に、人が訪れるようになったのです。

しかし、この変化は、伯母一家との溝を決定的なものとします。

ただでさえ不気味に感じていたヒュームの能力に加えて、度重なる来客。

耐えかねた伯母は、17歳のヒュームを家から追い出してしまいました。

 

高まる能力と名声

未成年であるにも関わらず、一人で生きていくことになったヒューム。

心霊主義がブームとなっていたことも手伝って、信奉者の支援を受けながら、交霊会に参加するようになりました。

能力のコントロールも身につき、物を動かす能力や、霊と交流する能力などが開花していったのもこの時期です。

出席した交霊会で、ヒュームが披露した能力は、多岐にわたります。

物を動かす能力では、ただ移動させるだけではなく、家具を宙に浮かせたり、指定した位置へと移動させたりすることも可能でした。

また、花瓶の水を噴水のように扱うことや、花の蕾を開花させたりすることも。

次々と起こる信じられない現象は、一大センセーションとなり、知名度が高まっていきました。

その後、ヒュームはイギリスへと渡り、欧州各国を周りながら名声を得ることに成功します。

1868年に行われた交霊会では、涼しい表情で、燃えさかる暖炉の炎の中から石炭を取り出してみせました。

真っ赤に焼けた石炭を、名乗り上げた出席者に手渡したところ、受け取った出席者はたちまち火傷を負いました。

しかし、ヒュームが次の出席者の手をとり、石炭を手渡すと変化が現れました。

なんと、石炭を手に平然としていたのです。

後に、その出席者は、ほんの少し温かく感じたにすぎないと語っていたと言います。

また、空中浮遊能力の発現や、楽器に触れずに演奏する自動演奏、四肢の長さが伸びる肉体伸長能力など、披露する能力は尽きることがありませんでした。

特に得意としていたのは、霊の手を出現させる現象で、白い霞のようなものが手の形に変化する様子を見せていました。

驚くことに霊の手には質感があり、握手をする、ペンをとって文字を書く、楽器を演奏することなどを可能にしたと言います。

実際に、交霊会に出席した著名な科学者でさえ、霊の手と握手を交わしたと証言しています。

霊の手は冷たく、力を入れて握ると消えていったそうです。

こうした交霊会での評判から、ヒュームの名声は、一般市民の間だけではなく、各界の著名人や上流階級の間でも高まっていきます。

「シャーロック・ホームズ」シリーズの著者であるコナン・ドイルとの交流などは、とても有名です。

また、ローマ教皇のピウス9世やロシア皇帝アレクサンドル2世との謁見、ナポレオン三世と皇后ウジェニーへの能力の披露なども実現しています。

 

話題の空中浮遊能力

ヒュームの代表的な能力として、最も有名な空中浮遊能力

空中浮遊といえば麻原彰晃ですが、ヒュームの空中浮遊能力はずば抜けていました。

この力が初めて発現したのは、1852年8月のこと、わずか19歳のときの出来事でした。

ある商人の自宅で開催された交霊会で、「ハートフォード」誌の編集長F・I・バーと握手しているところ、突然ヒューム自身の身体が浮き上がり始めたのです。

これは、本人も予測していなかったようで、驚いた様子を見せながら、床から30cmほどの位置まで浮き上がったと言います。

そして、床に降りたり、再び浮き上がったりを繰り返し、最後には天井に手を触れるほどの高さまで上昇するに至りました。

空中浮遊ヒュームは、「目に見えない霊が私を引っ張り上げてくれる」と証言。

以来、生涯に渡って100回以上もの空中浮遊に成功しています。

空中浮遊能力の精度も、回数を増すごとに研ぎ澄まされてゆくことに。

ただ宙に浮くだけではなく、自在に空中を歩き回ったり、ペンで天井に文字を書いたりなどのバリエーションが生まれました。

特に話題となった空中浮遊は、1968年12月16日に、イギリスのウィンチェスターで行われたものです。

ウェイン大佐、アデール卿、リンゼイ卿と、出席者がロンドン社交界の大物揃いだった交霊会での披露でした。

記録によると、ヒュームは出席者の三人をアパートの三階の一室に待機させ、隣の部屋へ入っていったとあります。

そして、三人がテーブルを囲んで話をしているところに、突然ヒュームが窓の外に現れたと言うのです。

驚いた三人が窓へ駆け寄ると、ヒュームは「こんなところを警官に見られたら大変だ。」と言いながら、宙に浮いたまま窓から入ってきました。

窓の外を確認しても、足場となる台はおろか、足をかける場所もありませんでした。

隣の部屋からの距離は2~3mもあり、出口となる場所は、幅30cmほどの小さな窓があるだけでした。

どのようにして、小窓から外にでたのかと出席者が問いただしたところ、ヒュームは、あっさりと身体を水平に浮かして窓から出てみせました。

そして、社会的地位のある三人が揃って証言したことで、報道されるほど話題に。

世間で熱い議論が交わされることとなりました。

その後、それぞれの出席者は、社会的信用が落ちることを心配してか、空中浮遊について強く主張することを避けたため、さらに議論が重ねられていきました。

 

検証する人々

ウィリアム・クルックスヒュームの能力に関しては、多くの議論が交わされていました。

心霊現象が大ブームとはいえ、多くの否定派も存在していた時代です。

交霊会への出席者も、彼の能力に対して懐疑的な人物も多く含まれていました。

「どこかに仕掛けがあるのではないか」、そう考え、トリックを暴くチャンスを虎視眈々と狙っていたようです。

しかし、ヒュームの交霊会は「暗い場所ではトリックの可能性がある」という信念のもと、明るい場所で行われることが多いものでした。

その結果、膨大な数の懐疑的な出席者がいたにも関わらず、トリックの証拠を発見できないままとなっています。

本格的な調査に関しては、ハーバード大学が行ったものがあります。

ヒュームの評判を聞きつけた調査グループが、1851年に実施しましたが、このときの結論も「ヒュームの能力は本物である」というものでした。

アコーデオンクルックス管の発明で知られる科学者、ウィリアム・クルックス卿も、ヒュームの能力を肯定した一人です。

1871年に検証を行い、その調査結果を発表しました。

検証では、クルックス卿が準備したアコーディオンを、ヒュームは手を触れずに弾きこなしています。

また、音が鳴った状態のまま空中も浮遊させることもやってのけました。

さまざまな能力を調査した結果、「本物」という結論が出されました。

多くの研究者の調査の要望に対して、常に快く応じていたことは、ヒュームの交霊会の特徴の一つとも言えるでしょう。

ときには何の現象も起きない交霊会もありましたが、慌てることも、ごまかすこともしないしませんでした。

いついかなるときも、披露する能力に、絶対の自信を持っていたのだと考えられます。

 

意外と恋多き人生

ヒュームの私生活は、意外と恋多きものとなっています。

また、恋に関する出来事が、自身の能力に関わる問題にまで発展したこともあるようです。

著作である、『わが生涯における出来事』では、自らの能力が消された出来事について触れています。

この件に関しては、「イタリアのフィレンツェで英国夫人とのスキャンダルを起こし、霊に1年間能力を消される」という記述などが見つかります。

どのようなスキャンダルだったのかが、非常に気になるところです。

初めての結婚は、1858年でした。

相手は、ローマで知り合ったアレクサンドリーナ嬢。

ロシア貴族の娘で、式にはトルストイやアレクサンドル・デュマなどの著名人が出席したことで知られています。

しかし、残念なことに、3年後に結核が原因でこの世を去ってしまいます。

その後、1867年にジェイン・ライアンという未亡人と養子縁組を結びますが、二人は愛人関係にあったという話もほのめかされています。

また、噂の域は越えませんが、空中浮遊能力の証言をしたアデール卿との「親密な関係」をほのめかすゴシップもあったようです。

女性受けしそうな話題ですね。

最終的には、1870年に知り合ったロシア人女性と再婚。

ヒュームが亡くなるまで、ヨーロッパ中を旅行しながら連れ添ったと言われています。

 

無欲ながらも金銭トラブルが多発

ヒュームの名声が高まるに連れ、彼の生活水準は高くなっていきます。

妻となった女性が、ロシア貴族の出であり、資産家であったことも関係していたのでしょう。

名使いを抱えた豪邸に住み、贅沢な食事を堪能し、欧州各国を周ることも可能でした。

しかし、能力の披露については謙虚で、交霊会の謝礼に現金を受け取ることは嫌がっていました。

後に妻を亡くし、経済的に困窮することになっても、物品は受け取るも金銭は受け取らないという姿勢を貫いていました。

金銭管理について疎い面もあり、妻の死後は、親類たちによる遺産相続争いというトラブルに巻き込まれています。

そのため、しばらく経済的に苦労することになります。

そこに救いの手を差し伸べたのが、ジェイン・ライアン夫人。

交霊会に、たびたび出席していた未亡人で、ヒュームを養子として迎えるほどの理解者でした。

総額6万ポンドもの資金援助を行っていたと言われています。

しかし、ライアン夫人との関係が長続きすることはありませんでした。

感情的でわがままな性格であった夫人に、しだいにヒュームがついていけなくなったのです。

また、夫人の方も、資金援助をしても名声を得るわけでもないため、しだいに自分の行いを後悔するようになりました。

こじれてしまった二人の関係は、ライアン夫人が詐欺の被害でヒュームを訴える事態にまで発展していきます。

この金銭トラブルは、大々的に報じられることになり、人々の注目を集める裁判となりました。

判決の結果は、ヒュームの有罪

担当した裁判官が心霊現象に対して否定的であったことなどが、不利に働いたようです。

援助した資金を返すよう言い渡され、投獄される寸前となりましたが、霊媒師の友人が支援してくれたことで、ライアン夫人の怒りも収まり、投獄は免れました。

 

ヒュームの晩年と築かれた伝説

DDヒューム幼いころに肺結核を患ったこともあり、病弱であったヒューム。

クロックス卿の調査が終了した後、自分の能力に限界が来たとして、1872年に39歳の若さで引退を表明します。

能力が完全に無くなったわけではなく、友人たちに求められれば、その後も披露することがあったといいます。

著作『わが生涯における出来事』の続編を執筆しながら、療養もかねてヨーロッパを転々とした生活を続けます。

晩年はロシアやイタリアなどで過ごし、1886年に53歳で、フランスの地で眠りにつきます。

サン・ジェルマン墓地に埋葬。

最後までトリックを証明されなかった、偉大なミディアムとして、後世に名を残しました。

映像を記録する技術や、測定のための機器が充実していなかった時代を生きたヒューム。

現在でも彼の能力に対する議論は続き、肯定派否定派の意見が入り乱れています。

ヒュームが生きた時代は、心霊現象がブームであっただけに、詐欺まがいの行為で摘発される霊媒師などが数多くいたことも事実です。

しかし、懐疑的な研究者に対するオープンな姿勢や、気軽に能力を披露しながらも常に成功していたわけではない点が、真実味を与えています。

「現代の技術で解析しても、トリックは証明されず、驚くような結果を残したかもしれない」、そんな気持ちになるような伝説を残した、ミディアムの生涯でした。

 

ダニエル・ダングラス・ヒューム~トリックを暴けなかった本物の空中浮遊~ まとめ

波乱に満ちながらも、ミディアムとしての生涯を全うした、ダニエル・ダングラス・ヒューム。

彼ほど圧倒的な数の目撃者を持ち、一般庶民から上流階級まで、幅広い階層の人間に支持された霊能力者はいないのではないでしょうか。

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