蝉の声

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」こんな一句ありましたよね。

「では、詠まれたのは、何ゼミだったのか?」後の世で、こんな論争が勃発したほど有名な句です。

しかし、虫が発する音を「声」と認識し、論争するは、日本人くらいなのだそうです。

 

脳は言語の影響を受ける?

蝉の声「閑さや~」の句について、外国の方と話をしていたときのこと。

セミの声が話題だったのですが、こちらは「声」と表現をして、相手は「音」と表現しました。

最終的に、「ところで、セミの音って、どんなの?」という質問が。

ミーンミーンやカナカナとかがあるよね?

と答えたところ、なんと相手の言語では、セミの声を表す擬音語が存在しないことが判明。

いったい原因は何のかと調べてみたところ、東京医科歯科大学の角田忠信教授のエピソードがヒットしました。

1987年にキューバの学会に参加した教授は、歓迎パーティーで、各国の科学者と交流していました。

白熱した議論が交わされる中、教授だけは、なかなか話に集中できません。

会場に響き渡る、「虫の声」に気をとられてしまうからです。

中南米特有の虫なのか、周囲の人に確認してみても、誰も声は聞こえないと言います。

不思議に思ったまま、パーティーもお開きとなり、他の参加者とともに帰路につきます。

帰り道でも、夜の静けさを強調するように、あちこちで虫の声があがっていました。

声が聞こえる場所を指で示し、同行者に耳を澄ませてもらっても、やはり自分以外の人には何も聞こえなかったというのです。

学会の開催中に行動をともにした外国の参加者は、3日目になって虫の音に気づく者と、最後まで気づかなかった者とに分かれました。

また、気づいた者でも、深い関心は示しませんでした。

この出来事から、「日本人と外国人では音の捉え方が違うのでは」と考えたそうです。

予想される相違点は言語。

言葉の影響から、脳の音の捉え方が、異なる可能性があるのです。

 

感覚を司る右脳・言語を司る左脳

右脳と左脳キューバでの体験をもとに、角田教授は、日本人の脳についての考察を重ねました。

生理学的に追求すると、人間の脳には右脳と左脳があり、それぞれ役割分担があるのだとか。

左脳は、読む・書く・話すなどの言語の分野や、論理的思考などを担当。

右脳は、直感やひらめき、音楽や雑音など音の処理といった感覚的な分野を担います。

この役割分担は、全人類に共通するもので、人種的な違いは関わってきません。

しかし、「虫の音を、どちらの脳で聞いているのか」という点では、日本人と外国人では大きく異なってきます。

日本人は、虫の音を「言語」として左脳で受け止めますが、外国人は「雑音」として右脳で処理しているというのです。

つまり、パーティー会場の虫の音は、角田教授にとっては言語として処理されるため「声」と認識。

虫の声と外国語が、「言語」として左脳内でぶつかり合うため、議論に集中しきれなかったと考えられます。

教授以外の外国人にとっては、虫の音は、ただのノイズ。

私たちが、生活の中の騒音を、いちいち気にしないのと同じように、聞き流しているのです。

虫の音を「声」として認識する現象は、世界中をみても、日本とポリネシアだけだと言われています。

また、認識の違いは、人種によって生じるものではなく、どの言語を母語とするかによって決まります。

帰国子女や日系人のように、両親が日本人でも幼い頃から海外で育ち、外国語を母語としていると、やはり虫の「声」が認識できなくなるのです。

また、外国人でも日本語を母語として覚えていれば、「声」として左脳で対応するようになることが、実験で分かっています。

 

音を認識する実験

では、どのような実験から、認識の違いを明確にすることができたのでしょうか。

まずは、人間が音を聞き取るメカニズムから、確認していきましょう。

音は耳から入り、神経を伝達して脳まで届きます。

左耳から入った音は右脳に、右耳から入った音は左脳に伝わるよう、神経はクロスしています。

左右の耳に、同時に違った音楽を聞かせると、明らかに左耳からの方が、認識率が高いのです。

右脳が司るのは、音楽などの感覚的なものなので、この結果は当然ですね。

音楽を言葉に置き換えた実験では、右耳から入った言語の方が、認識率が高いという結果がでます。

これは、スマホを使うときの行動にも現れていて、ほとんどの人が、無意識に右耳にあてて会話するのだとか。

左脳が言語を司る、分かりやすい例ですね。

音の認識のパターンは、基本的に、どの人種でも共通なのですが、細かい部分で相違点が出てきます。

動物と虫が発する鳴き声、人の泣き声や笑い声、雨や風といった自然の音、楽器音などの聞き取りが、代表的なものです。

日本人は言語として左脳で受け止め、外国人はノイズとして右脳で対応するということが判明しました。

 

虫の音の捉え方

鈴虫日本人に対して、虫の発する音のことを質問すると、「風情がある」「季節を感じる」といった答えが返ってきます。

はるか昔、平安の世から、虫の声を愛でる風習が日本には根付いてきました。

約1000年前に書かれた、世界最古の長編である「源氏物語」でも、虫の音を「声」として受け取った表現が使われているほどです。

すでにこの時代から、日本人は、言語脳で捉えていたのかもしれません。

おほかたの秋をばうしと知りにしをふり棄てがたき鈴虫の声
心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ

コオロギやスズムシなど、鳴き声が美しい虫を飼育する方法も発達し、現在でも多くの愛好家を魅了しています。

小学校の音楽の時間でも、秋の夜長を鳴きとおす、虫の歌など合唱しますね。

それだけ日本人の中には、虫の声への感覚が養われてきたのでしょう。

明治天皇の御歌の中にも、その感性をするどく表現したものがあります。

さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思ひは

虫を「思い」を持つ生き物として捉えてることができる、日本人の自然に対する心象を物語っています。

 

欧米での虫の音の捉え方

「閑さや~」の句についてセミの声談義をした、外国の方との話に戻りますが、欧米での虫への扱いは、日本とは異なるようです。

「声」や「思い」を持つ生き物として扱うことが多い日本に対して、欧米での虫は「人に害をもたらす」というイメージが強いと語っていました。

「虫」という単語には、「蔑む、卑しい」といったマイナスの意味が込められおり、連想するのも、ハエ、蚊、ハチといった害虫ばかりなのだとか。

夏の鮮やかさを際立たたせる蝉しぐれや、秋の涼やかさを感じさせるようなスズムシの声などは、決して候補には挙がらないといいます。

「この違いはどこから生まれてくるのか?」について、その外国の方は、宗教観の違いによるものではないかと指摘していました。

欧米で信仰されるキリスト教では、すべての自然の物は「人間のために神が創造したもの」として捉えられることが多いそうです。

対して、日本では「自然の万物には神が宿る」という考えが存在します。

自然の一部である虫も、欧米では「人間に支配されるものの一つ」。

日本では「敬う対象」というふうに捉えられていると語っていました。

この違いが、虫の音をノイズとして捉えるか「声」として捉えるかを分けたのではないか、という推測です。

なるほど、そんな考え方もできるのかと、感心した出来事でした。

そういえば、「怪談」の著者である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も、明治時代に来日してから、虫の声を楽しむ文化に驚かされたと言いますね。

 

擬音語・擬態語の多さも関係する

日本語は、語彙が多い言語だという話を聞いたことがあります。

その中の一つに、擬音語・擬態語での表現の多さがあります。

擬音語では「ワンワン」「ニャーニャー」といった動物の鳴き声から、「シトシト」「ピューピュー」といった自然の音までを網羅しています。

擬態語では、「キラキラ」光る、「ヒラヒラ」舞うなど、無生物の様子までを表しています。

その数は、辞典などで確認されるだけでも4500種類。古くは、古事記にも登場し、現代では、新たに生み出されたものもあります。

「モフモフ」などは、ごく最近になってから使われるようになったものですね。

角田教授の研究では、日本人の脳は、動物の鳴き声や、波、風といった自然の音も、言語脳で聞いているとされていました。

幼い頃から、擬音語・擬態語の表現にあふれた会話を体験していれば、虫の音も自然の音も「声」として、言語脳で対応するようになるのかもしれません。

あるいは、言語脳で捉えるから、言語としての擬態語・擬態語が発達したのでしょうか。

卵が先か、ニワトリが先かという状態です。

そばを「ツルツル」食べる、「ズルズル」食べる、「チュルチュル」食べるといった表現の違いは、外国の方に説明するのは大変です。

この違いをニュアンスで、なんとなく理解できることの背景には、「自然の音を言語脳で受け止める」ことが関係するのでしょうか。

そう考えると、何気なくできていたものが、壮大なことのようにも感じます。

 

母語の違いと虫の声

日本人と外国人角田教授の研究によると、虫の声を言語脳で受け止めるか否かは、人種の問題ではなく母語の問題だとされています。

日本語を母語として育つと言語脳、第2言語として覚えると感覚を司る右脳に変わるのです。

これを証明するための例として、南米で育った日系人10名を調査したものが有名です。

対象者のうち9名は、ポルトガル語とスペイン語を母語としており、言語脳での受け止めはできないという結果でした。

しかし、父親から日本語の母語教育をほどこされ、ポルトガル語よりも先に日本語を習得していた女性の場合は、言語脳での受け止めが認められました。

日本国内のケースでも、在日で育った韓国系の人は、言語脳でした。

生粋の韓国人の場合は、やはり右脳でノイズとして対応すると言われています。

この事例を知ってから、海外で育った日本人の方と出会うたびに、「育った国のセミの音は?」と質問するようになりました。

その結果、日本語よりも外国語の方が得意だという人は「セミの音?どんなだったかなぁ」と首をかしげる傾向にあることが分かりました。

対して、日本語の方が得意だという人は、「ニッシッシッシと聞こえた」と、独自の擬音語表現で説明してくる傾向があるようです。

母語の違いとは、興味深いものです。

 

ガラパゴス化は褒め言葉?

日本語による脳の違いについて、えんえんと語ってきましたが、ここで角田教授と理論物理学者の湯川秀樹博士の対談の一部を引用したいと思います。

対談の中で博士は、日本人と欧米人の違いについて触れていますが、違いをプラス方向へと活かすことを模索する発言がみらます。

マイナスと捉えて卑下するだけではいけないとういうのです。

~そこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす~違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です

湯川博士は、日本初のノーベル賞受賞者。

「違うということを生かす」「独創的なものが生まれる」という言葉には、納得させられるものがあります。

ガラパゴス化

日本の製品やサービスが独自の方向に進みすぎて、国際競争力を懸念する表現に「ガラパゴス化」というものがあります。

こちらも、どちらかというと、マイナスの意味が強い表現です。

しかし、ガラパゴス化しているということは、世界中を探しても日本でしか見られないものが存在するということ。

虫の音を「声」として捉える独自の自然観で、世界的に問題となっている環境破壊を、独創的な方法で共生に導く未来もあるかもしれません。

日本語の脳による違いから、独創性を高めるガラパゴス化は、褒め言葉なのではないでしょうか。

 

まとめ

虫の音の捉え方から発展した、日本語の脳の違い。

ふだん、何気なく使っている言葉が、国民性をつくっている可能性があります。

観光などで、多くの外国の方が日本に訪れるようになった今、こうした違いを楽しめることが大事なのかもしれませんね。

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