よど号ハイジャック事件

日本赤軍の前身となる組織となるのは共産主義者同盟、通称ブントです。

145大学の学生自治会で構成された連合組織である全学連を牽引していた学生らにより、1958年に日本の新左翼党派として結成されます。

1960年に一度解体されますが1966年に再建されたのです。

その党派の一つであった共産主義者同盟赤軍派は1969年に結成され、このよど号事件後日本赤軍へと姿を変えていくことになります。

彼らは国外に拠点を作るという目的を掲げ、その手段として飛行機を乗っ取りを計画、そして実行します。

当時ではだれも予測しませんでした。

この日本で最初のハイジャック事件後、彼らは日本赤軍へと姿を変えていきます。

よど号ハイジャック事件の概要

1970年3月31日、7時33分。

羽田空港発、福岡空港行きの日本航空351便が富士山上空を飛行中にハイジャックされました。

犯人グループは日本刀や拳銃、爆弾などを武器とみられるものを持っており、男性客を窓側へ移動させたうえで、持ち込んだロープにより拘束。

一部は操縦席に侵入して相原航空機関士を拘束。

江崎副操縦士に平壌に向かうよう指示しました。

給油のために福岡空港へ

この要求に対し江崎副操縦士は「運航しているのは福岡行きの国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と犯人グループに説き、給油の名目で8時59分に当初の目的地である福岡空港に着陸しました。

これは機転を利かせた江崎副操縦士の嘘であり、実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することは可能でした。

福岡県警は国外逃亡を阻止すべく機体を福岡空港にとどめることに注力し、給油を遅らせたり、自衛隊の戦闘機が故障を装い滑走路を塞いだりなどの妨害工作を行います。

しかしこのことがかえって犯人グループを刺激する結果になります。

犯人グループは離陸をせかしましたが機長に説得をされ、戦闘機をどかせることを条件に人質の一部を開放することに同意。

13時35分、女性、子供、病人、高齢者を含む人質23人が解放されました。

13時59分、よど号は北朝鮮の平壌に向かうため福岡空港を離陸。

朝鮮半島の東側を北上しながら飛行を続け、14時40分進路を西に変更しました。

韓国空軍による偽装工作

その前後、よど号の右隣に国籍を隠した戦闘機が現れ、機長に向かって親指を下げ降下に入るようにとの指示を行います。

この時よど号は北緯38度線付近を飛んでおり、まだ韓国領の中にいました。

のちに誤情報と判明するのですが、この際に北朝鮮側から機体に対し、対空砲火が行われたとの情報が飛び交わったことで、北朝鮮に入ったと考えた副操縦士は英語でこちらJAL351便(This is JAL351 flight)」と何度か呼び掛けます。

当機に対し「こちら平壌進入管制」という無線が入り、周波数を121.MCから134.1MCに切り替えるよう指示してきます。

これは「理由のいかんを問わず、よど号を金浦空港に着陸させろ」との朴正煕(パク・チョンヒ)直々の命令を受けていた韓国空軍の管制官が北朝鮮の航空管制を装ったものであったそうです。

石田機長は平壌からの無線でないことを周波数から悟り、江崎副機長もソウルから平壌に無線が切り替わったはずなのに管制官の声が酷似するなどの不自然な点が多く、ソウルに誘導されていると感じていましたが、そのまま管制の指示に従って徐々に進路を南に変更します。

犯人グループは亡命希望先の北朝鮮の公用語である朝鮮語はおろか英語もほとんど理解できなかったため、これらのやり取りに対して疑問を持つことはありませんでした。

そしてこのころ、韓国・金浦国際空港ではよど号が到着するまでの8時間弱の間に平壌国際空港に偽装する工作が韓国中央情報部(KCIA)によって行われていました。

KCIAは急遽北朝鮮国旗を用意し、駐機中の韓国や欧米の飛行機は離陸させ、韓国記号のマークが入った車両は黄色くペンキで塗りつぶすなどの作業を行いました。

15時16分、同機は完成の誘導の元、平壌国際空港に偽装された金浦国際空港に着陸。

韓国兵は朝鮮人民軍兵士の服装をして「平壌到着歓迎」のプラカードを掲げるなど、犯人グループの目を欺き、韓国内で事件を解決させようと考えていました。

しかし、犯人グループの一人が平壌の空港にあるはずのないノースウエスト航空機が駐機しているのを発見し偽装工作に気が付いてしまいます。

犯人グループとの交渉

着陸したのは金浦国際空港であることが犯人にわかってしまった後、韓国当局は犯人グループと交渉を開始。

韓国に来てしまった犯人グループは即座に離陸させるように要求したものの、韓国当局は停止したエンジンを再始動するために必要となるスターターの供与を拒否します。

その結果よど号は離陸することができなくなり、事態は膠着状態に陥ったのです。

管制塔から「一般客をおろせば北朝鮮に行くことを許可する」との呼びかけも行われますが、犯人グループはこれを拒否し、食料などの差し入れを要求します。

そんな中、31日の午後、日本航空の特別機が山村新治郎運輸政務次官をはじめとした日本政府関係者や日本航空社員をのせて羽田空港を飛び立ち、4月1日未明にソウルに到着します。

韓国政府の丁來赫(チョン・ネヒョク)国防部長官や白善燁(ペク・ソニョプ)交通部長官、朴璟遠(パク・キョンウォン)内務部長官とともに交渉にあたることになりました。

山村新治郎運輸政務次官が身代わりとなる

この頃、よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた紙コップをコックピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明します。

韓国当局はこの情報をもとに特別部隊による突入を行うことも検討しますが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念。

日本政府はソビエト連邦や国際赤十字社を通じてよど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を北朝鮮政府に要求しました。

これに対して北朝鮮当局は「人道主義に基づき、もし期待が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員および乗客は直ちに送り返す」と発表し、朝鮮赤十字会も同様の見解を示しました。

日本政府はさらに犯人グループが乗客を開放した場合には北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ韓国側は最終的にこれを受け入れます。

受け入れ態勢を整えつつ数日間の交渉を経た4月3日、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。

犯人グループの1人である田中義三と山村が入れ替わる形で乗り込む間に乗客を順次開放し、最終的に地上に降りていた田中と最後の乗客1人がタラップで入れ替わる形で開放が行われました。

またこの時客室乗務員も解放されています。

解放された人質は日本航空特別機のダグラスDC-8-62で福岡空港に帰国しました。

よど号 北朝鮮へ 事件の収束

4月3日の18時5分、よど号は金浦国際空港を離陸、軍事境界線絵を超えて北朝鮮領空に入ります。

同日19時21分、よど号は平壌国際空港に着陸。

この時対応した北朝鮮側は武装解除を求めたため、犯人グループは武器を置いて機外へ出ました。

武装解除により機内に残された日本刀や拳銃、爆弾などは、全ておもちゃや模造品であったことがのちに判明しました。

そしてよど号に乗っていた犯人グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保されたのです

よど号が到着した後、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保証できない」と表明し「日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押し付けた」と非難しますが、

4月4日北朝鮮は再度日本を非難する一方で「人道主義的観点から機体と乗員の返却を行う」と発表。

同時に飛行機を拉致してきた学生に対し必要な調査と適切な処置をとるとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示しました。

これをうけ日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表。

佐藤首相の日記でも「一同おおよろこび。北朝鮮の厚意を感謝する」と記されていました。

翌日5日早朝、機長、副操縦士。航空機関士、山村政務次官の4人を乗せ美林飛行場を飛び立ったよど号は、美保上空を経由し羽田空港に到着。

空港では大臣ら関係者が出迎え、彼らが無事帰国したことにより、事件は一人の負傷者を出すことなく、一応の収束を迎えました。

選抜された9人

よど号ハイジャック事件を起こした共産主義者同盟赤軍派のメンバーは田宮高麿、小西隆裕、岡本武、田中義三、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎、吉田金太郎、柴田泰弘の9人。

柴田のみ10代、柴田以外は全員20代で、彼らはメディアからよど号グループと呼ばれているそうです。

赤軍派は1969年の11月5日に当時の総理大臣官邸襲撃のための軍事訓練を目的に山梨県塩山市の大菩薩と宇部に結集していたところを摘発され、政治局員数人を含む53人が一斉逮捕されました。

翌年の1970年3月15日、赤軍派議長の塩見孝也も逮捕されています。

幹部が逮捕されて組織が弱体化した赤軍派は、海外の後進国を武力で制圧して軍事拠点を置き、その拠点を広げることで組織強化を図り革命を起こそうと考えます。

その最初の派遣部隊として9人が選ばれ、北朝鮮へ渡る手段として1970年によど号ハイジャック事件が起こったのです。

拠点とする国に北朝鮮が選ばれたのは北朝鮮の体制を支持していたからではなく、最も身近にある「日本敵国主義と敵対関係にある国」だったからにすぎず、赤軍派は武力で制圧するつもりでした。

よど号ハイジャック事件 その後

よど号ハイジャック事件

よど号メンバーは吉田を除く8人が1977年までに現地で日本人と結婚しており、彼女たちはメディアからよど号妻と呼ばれています。

彼女たちは岡本武の妻福留貴美子を除いて、北朝鮮の思想に共感を持つ団体等に所属していたことから、北朝鮮の思想に共感を持っていたと思われています。

しかし柴田泰弘の元妻である八尾恵は自分を含めて日本人妻の多くは強制的に結婚させられたと主張しており、その真意は不明なままです。

またよど号妻にはパスポート返還命令違反等の旅券法違反で逮捕状が出ており、死亡が伝えられている福留貴美子と北朝鮮在住の若林佐喜子、森順子以外の4人のよど号妻は2001年以降に帰国後逮捕され、旅券法違反による執行猶予付きの懲役刑が確定しています。

犯人メンバーは「北朝鮮の赤軍化」という目的は果たされず、朝鮮労働党統一戦線部の管理下に置かれ、平壌近郊にある「日本革命村」で北朝鮮における金日成体制を肯定する主体思想による徹底的な洗脳教育を受けたと言われています。

その後、柴田泰弘と田中義三の2人は日本に帰国し、裁判で有罪判決をうけ服役。

柴田は刑期満了による出所後の2011年6月23日に大阪市内のアパートで、田中は2007年1月1日服役中にそれぞれ死亡しています。

吉田金太郎、岡本武、田宮高麿は北朝鮮国内で死亡したとされていますが、不審な点も指摘されており、本当に死亡しているのかは不明なままです。

そして現在も北朝鮮にいるとされているのは小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎の4人で、現在も平壌に暮らしているそうです。

かつてはよど号メンバーとその妻、その子供の計36人が「日本革命村」で暮らしていました。

商社などを経営し、平壌中心部に事務所を構え、優雅な暮らしをしていたそうです。

そのような待遇を受けていた理由は、北による日本人の拉致問題がかかわってきます。

よど号メンバーとその妻が、朝鮮労働党の指導の下、金日成主義に基づいた日本革命を目指して日本人の拉致に深く関与していたと言われています。

しかし、現時点では詳細は不明な点が多く、本当に関与していたと決定づける証拠もありません。

そしてその件に関して、妻たちは一部犯行を認めているものの、よど号メンバーは完全否定しており、主張はわかれたままです。

しかしもし本当に彼らが拉致事件に関与しているのであれば、このハイジャック事件が日本に与えた影響は非常に大きなものだと言えます。

そして2020年現在、よど号メンバーはTwitterアカウントやホームページ「よど号日本人村」を開設し、日本人拉致の冤罪の主張、日本への帰国を求める主張を行っています。

よど号ハイジャック事件 まとめ

この事件は日本初のハイジャック事件であり、教訓として同年6月に航空機の教主等の処罰に関する法律、いわゆるハイジャック防止法が制定される結果になりました。

しかしよど号メンバーにこの法律は適用されてはおらず、あくまで期待という財物や航空運賃という財産上の利益に対する強盗罪や、乗員乗客に対する略取・誘拐罪に問われるということになります。

そして国外逃亡していることから、刑事訴訟法第255条の規定により公訴時効は停止。

このようなことからよど号メンバーは合意による無罪帰国を求めていますが、日本政府がそれを認めていないため帰国せず、拉致問題も含め未解決事件となっています。

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