八高線列車事故|正面衝突と脱線転覆事故の新事実

東京の八王子と、群馬の高崎を結ぶ路線として知られる「八高線」。
現在でも、東京周辺で約2万人の通過人員がいると言われています。
通勤などに欠かせないこの路線で、戦後まもない時期に、日本最大級ともいえる列車事故が立て続けに起こっていたことはご存知でしょうか。

事故の経緯をまとめてみたいと思います。

多摩川橋梁での正面衝突事故

八高線正面衝突事故

終戦を告げた玉音放送の直後である1945年8月24日に、上りと下りの列車が、多摩川橋梁で正面衝突を起こした事故です。
当時の記録によると、死者100以上、負傷者150人以上もの被害を出しています。

ここまでの大惨事となった原因は2つです。
1つ目は、通学・通勤だけなく、疎開先からの引揚者や物資の買い出しのための客で、列車が満員状態だったことです。
2つ目は、激しい暴風雨の最中であり、多摩川に濁流が渦巻いていたことが挙げられます。

正面衝突した列車は、多摩川橋梁から川に転落。
列車の外に逃れようにも、多くの人間が川の激しい流れに押し流されていってしまったのです。
下流に押し流されたまま、発見されなかった遺体も相当数あるのではないかと言われています。

なぜ正面衝突したのか

正面衝突事故通常であれば、列車同士の正面衝突を避けるための機械が作動するはずでした。
しかし、当日の悪天候によって、駅同士の通信が遮断。
さらに、信号までもが故障する事態となっていたのです。
そのため、機械を使用することが不可能になりました。

代替えの手段として、指導員を乗せて列車が運行されたのですが、ここでもトラブルが起きてしまいます。
基本的に、非常時の指導員は、1区間に1人と定められています。
しかし、通信が遮断されていたことによって、2人の指導員が路線に出てしまったのです。
その結果、情報の食い違いが生じ、正面衝突事故へと発展してしまいました。

上鹿山地での脱線転覆事故

脱線転覆事故

痛ましい出来事から2年後の、1947年2月25日にも、八高線での大事故が起こります。
こちらは、死者180人以上、負傷者570人以上もの被害を出しています。
まだ戦後の混乱から抜け出せていない時期で、屋根の上にまで乗客がいるような、現在の日本では考えられないほどの重量超過状態であったと言われています。

また、出兵によって多くのベテラン運転手や駅員などが戦死しており、極度の労働力不足であったとも言われています。
列車の仕事に携わる人間は、採用されたばかりの若手であることが多かった時代でした。

なぜ脱線転覆したのか

脱線転覆事故が起こった現場は、埼玉県の上鹿山でした。
R250という急カーブという条件に加えて、20パーセントの下り坂であるという条件が重なっていた場所でした。
重量オーバーの乗客を抱えた列車は、下りでの減速がきかず、車両が激しく振られることになってしまいます。

さらに、保線管理や連結器の老朽化といった条件が加えられます。
連結器が外れ、6両編成うち4両が脱線。
5メートル下の桑畑まで転落していったのです。
木造の車体は大破し、数多くの犠牲者が出る結果となりました。

また、当時23歳だった運転士は、後部の異常事態に気がつくことなく、次の駅まで列車を走行させていたと言われています。

今だから語れる新事実

八高線脱線転覆事故

この脱線事故には当時嘘の証言が報道されていたといいます。
新たに浮上した証言は、運転席の様子を捉えたもので、運転士と運転助手の二人がいましたが、蒸気機関車の窯を使って飯炊きをしていたといいます。

勤務中に飯炊きをしていたことで、運転席は無人状態。
無人の機関車ですから鹿山峠を下りだすと猛スピードで加速していきます。
運転士の証言ではブレーキをかけたために横転したとされていますが、実際はブレーキなしで走行し、そのまま暴走列車は連結器が外れて脱線、転覆したというのです。

運転士はこの目撃者に対し「今見ていたことは誰にも言うなよ。もし言ったらお前も死刑になるぞ」といって脅したといいます。

これは『鉄道チャレンジ』に掲載されていた新たな証言ですが、もしこれが本当なら完全に人災です。
運転士は後部車両の異常事態に気づかなかったというのも不自然です。

八高線列車事故|正面衝突と脱線転覆事故の新事実 まとめ

わずか2年の間に、同じ路線で300人近い犠牲者を出した八高線。
この二つの事件をきっかけに、列車の運行における安全面への取り組みに力が入れられるようになりました。

上鹿山の現場には、石造りの慰霊碑が、今もひっそりと佇んでいます。

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