八つ墓村【横溝正史】のモデルとなった津山事件30人殺しの犯人都井睦雄と生き残った寺井ゆり子。新証言で夜這いに事実が明らかに!

八つ墓村のモデルとなった津山30人殺し事件をご存知だろうか?

八つ墓村は、横溝正史の長編推理小説「金田一耕助シリーズ」の岡山三部作と呼ばれる集大成となった作品で、本作を原作とした映画が3本、ドラマが6本、漫画が5作品、舞台が1作品ある超有名文学です。

横溝正史の推理小説が映像化されたものの中に日本映画の金字塔と呼ばれた犬神家の一族の映画3本、ドラマ5本がありますが、これを上回る映画3本、ドラマ6本です。

中でも1977年の映画化では、「祟りじゃ~っ! 八つ墓の祟りじゃ~っ!」というセリフが流行語になりました。

八つ墓村の構想は、横溝正史が前出の人気2作品「本陣殺人事件」と「獄門島」を書く前から暖めてきた題材で、昭和13年に起こった津山30人殺しをモデルに描いた作品なのです。

 

八つ墓村のあらすじ

あi320戦国時代、毛利元就との戦いに敗れた尼子義孝が率いる落ち武者8名が村に落ち延びてきました。

落ち武者だったこともあり、村人たちは怖がっていたが、次第に打ち解けあうようになります。

ここに毛利一族がやってきて落ち武者を差し出せば褒美を出すというので、村人たちは話し合い、褒美よりも落ち武者の財宝に眼がくらんで落ち武者殺しの計画を立てるのです。

相手は落ち武者といえども戦闘に通じているので、ある夜、村人らは夏祭りを企画して落ち武者たちを呼び、酒に毒を盛って切りつけ落ち武者8名を殺すのですが、落ち武者の筆頭、尼子義孝が「末代まで呪ってやる」と言い残して果てます。

この8名の首塚が八つ墓村の名前の由来という。
その後、落ち武者殺しの首謀格であった多治見が狂いだし、落ち武者殺しに加担した残りのものとその家族を殺し、自らの首を切り落として自殺したのです。

この狂気に満ちた殺人劇の人数も8名だったことから「八つ墓村の祟り」と考えられるようになります。

月日は流れ、今度は多治見の息子である要蔵が狂いだし、村人32名を殺戮して姿を消します。
多治見家は、莫大な遺産があり、跡取は32名殺しの要蔵の子供である多治見久弥と多治見春代という兄弟ですが、二人とも体が弱いので継げる見込みがないというのです。

そこで、この二人の腹違いの兄弟であった寺田達也が相続人に呼ばれたことから話は遺産相続争いの殺人ミステリーへと変貌していきます。

ネタバレになるといけないのでこのへんで。

 

 都井睦雄

toimutsuo3八つ墓村の32名殺しのモデルとなったのがこの津山30人殺しの犯人、都井睦雄(とい むつお)です。

都井睦雄は、1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見で農家の長男として生まれ、2歳のときに父、3歳のときに母をともに肺結核で亡くしたため祖母が睦雄と姉を連れて加茂の中心部である塔中へ移り住み、睦雄が6歳のときに一家は祖母の生まれ故郷である貝尾集落に引っ越したのです。

都井睦雄は、幼いころから身体が弱く、学校も欠席しがちでしたが成績は優秀で、小学校3年生からは級長を務めるほどの秀才だったようですが、病気がちだったせいもあり友達はほとんどおらず、心の内は祖母には打ち明けられず、唯一姉が母親代わりのようだったといいます。

姉が隣町に嫁いでからは、孤独との戦いだったようです。

都井睦雄は、一方で小説を子供向けに作り直し、近所の子供達に読み聞かせたり、村が停電になると睦雄が電柱に登って修理していたという優しい一面もあったといいます。

家にこもりがちだった都井睦雄は、幼い頃からの肺の病気が悪化していくと医者にみてもらい肺の病であると告げられます。

両親ともに肺結核でなくしている都井睦雄にとっては、どこか気がついていたのかもしれません。

昭和11年5月18日、阿部定事件が新聞で報道されると都井睦雄は刺激をうけて友人に「阿部定みたいにえらいとこしちゃる」と言ったそうです。

明けて昭和12年4月には、農地を担保に金400円(今の額で約200万円)を借り入れ、いくつもの高価な薬を買いあさり結核を治そうとしますが効果が現れません。

貝尾村では、夜這いという淫らな風習があり、若い女性はもちろん人妻にさえも夜這いで心を紛らわすようになっていったのです。

幼馴染の寺井ゆり子、西川良子もそのひとりです。

しかし、都井睦雄が19歳になった時に徴兵検査を受けて「肺結核」と診断され、不合格になると軍人になる希望も途絶えます。

この当時の希望といえば「男子たるものお国のために」という立派な軍人でしたから、この徴兵検査不合格は睦雄の心にとてつもない衝撃を与えたに違いありません。

さらに「結核」という病気は、当時はペニシリンなどがなく、不治の病とされていた病気だったこともあり、村人たちは睦雄の家の前を通る時にはハンカチで口を押さえて足早に走り去るようになったり、夜這いで関係を持った女性にも関係を拒まれ罵られたり、果ては村で孤立状態にまでなると都井睦雄は自暴自棄に陥っていくのです。

その一方で都井睦雄は、自分を拒否した女性に激しい憎悪をいだくようになり、特に自分と関係を持ちながらも別の男と結婚した寺井ゆり子と西川良子に激しい殺意を持つようになっていきました。

 

完全武装と周到な計画

i320昭和13年2月、都井睦雄は残りの農地を担保に入れて金600円を借り入れ、神戸で猟銃を買い、山中で射撃の練習をする日々が続きましたが、村人からおかしな目でみられるようになり、祖母が「睦雄に殺される」と警察に通報し、武器一式を没収されましたが、睦雄の素直さに免じて厳重注意だけで処罰されることはありませんでした。

この後、都井睦雄は、すぐに猟銃と日本刀を買いそろえ、屋根裏部屋で猟銃を通常の弾丸5連発のものを猛獣用の弾丸9連発に改造し、準備を進めていた。

都井睦雄は、周到に計画しており、襲撃予定の家を自転車で往復してルートを確認したり、当時電話のない村で夜道を警察まで走ると2時間はかかることを計算し、さらに「早くしないと病気のために弱るばかりだ」と睦雄の悪口を言っていた女性の名前をあげて「復習のために殺す」と犯行の3日前から計画書ともとらえられる遺書を書き、たまたま寺井ゆり子と西川良子が村に帰ってきている日を調べて犯行の日を選んでいます。
昭和13年5月20日、午後7時頃、都井睦雄は、まず電線を切って貝尾村を停電させます。

日ごろから停電になると電柱に登って修理していた睦雄にとって村中全23戸を停電にすることは容易でした。

この当時の電気事情は悪く、停電することもしばしばあったため、村人たちはいつものように寝静まったといいます。

深夜になると都井睦雄は、黒い詰襟の学生服を着用し、膝下には軍事訓練で使うゲートルを巻き、地下足袋を履き、頭には鉢巻しめてまるで鬼のように小型の懐中電灯を二本差し、首からは自転車用のナショナルランプ、腰には日本刀一振りと匕首(あいくち)と呼ばれる短刀二振り、手には猛獣用9連発に改造したブローニング猟銃をもって準備を終えました。

その姿は、まさに都井睦雄が憧れた軍人そのものであり、まるで鬼のようにも見えたといいます。

 

津山事件 ~ 三十人殺し ~

津山事件は、「津山三十人殺し」や犯人の姓名を取って「都井睦雄事件」ともいい、近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれていますが、当時の警察署が津山署だったため津山事件とされています。

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自宅

昭和13年5月20日、貝尾村を停電させ、武装した都井睦雄は、まず自分の祖母から殺害します。

寝ている祖母の前で手を合わせ、斧を振り下ろして祖母の首を切断、首は50センチほど飛んで転がり、睦雄は返り血を浴びました。

後の遺書には、真っ先に祖母を手に掛けた理由は「後に残る不びんを考えてついああしたことをおこなった」と書いています。

 

1軒目

祖母を殺害して家を飛び出した都井は、隣の家へ入ります。

当時の田舎のこと、鍵などかけておらず、夜這いで家の間取りを知っているので寝室まですぐにたどり着きました。

都井睦雄は、夜這いで自分と関係を結びながらも村中に噂をまきちらし悪口を言った50歳の母親を憎んでいましたが、最初から猟銃を使うと騒ぎが拡大するので日本刀で首と胸を刺し、最後に口の中に刀を突き刺して殺しました。

勢いあまって刃物の先は身体を突きぬけて畳まで達していたといいます。

母親の二人の男の子も日本刀で殺害しました。

 

2軒目 ~西川家~

次はその隣の西川家に向かいますが、夫婦2人、娘が2人の4人暮らしでしたが、都井睦雄はこのうち奥さんと長女の2人と関係があり、2人分憎んでいたというのです。

都井睦雄は、この日に帰ってきていることを事前に調べておいた長女の良子を特に憎んでいました。

まず、関係のあった奥さんの股間に猟銃を突きつけて、なんのためらいもなく引き金を引きました。

猛獣用の弾に改造してあるブローニング猟銃ですから体が炸裂して内臓が飛び散って即死しました。

この猟銃の音で別の部屋で寝ていた主人と娘が驚いて目を覚ましたところ、お構いなく次々と至近距離で発砲し、3人とも弾が貫通し、体には大きな穴があいて死亡していたといいます。

 

3軒目

都井睦雄が次に選んだのは、少し離れた所にある家で、夫婦2人、祖母、甥の4人家族です。

都井睦雄は、家に入るやいなや夫婦を猟銃で射殺し、妊娠半年だった妻にも気をとめず腹に弾丸をぶち込み、甥も胸に弾丸を浴びせて殺害しました。

祖母は必死に命乞いをしたが聞いてはもらえずに胸を撃ち抜かれましたが、この祖母だけは一命をとりとめることが出来ました。

 

4軒目 ~寺井家~

都井睦雄が最も憎むこの家は、6人家族です。

その中でも4女のゆり子と都井睦雄は幼馴染で結婚をかんがえるような関係であったにも関わらず、周囲の反対もあり、睦雄を捨てて別の男に嫁ぎました。

弟の結婚式のためにこの日に帰ってきていることをもちろん事前に調べていた都井睦雄は、堂々と玄関から進入したが、出てきた主人をいきなり猟銃で射殺、逃げまどう長男夫婦たちも片っぱしから銃を乱射して殺害しました。

しかし、肝心のゆり子は裏口からすばやく逃げて近くの家に逃げ込みました。

それに気づいた都井睦雄は、すぐにゆり子の後を追い、襲撃する予定ではない家ではあったが、扉には鍵がかけられていたので「開けろ!」と睦雄が怒鳴ると、雨戸を開けて顔をのぞかせた祖父をめがけて射殺しました。

次男は何とか逃げ出したが、肝心のゆり子は、家の方と全て閉め切って家にたてこもったので睦雄は銃を乱射したが、結局中に入れなかったため、諦めて次の家に向かいました。

都井睦雄が最も憎んでいた寺井ゆり子を殺害することはできませんでした。
このころになると響き渡る銃声や悲鳴から村中が騒然とし、逃げ延びたものは警察に走りました。

 

高台の家

都井睦雄は次に高台の家に向かいます。

この家には母と息子の2人暮らしでしたが、都井睦雄と関係があった母親が睦雄とは違う別の男とくっついたので恨んでいました。

この母親というのが、都井睦雄が一番憎むゆり子の結婚式の媒酌人だったことも気に入らなかったようです。

親子ともども寝ているところを布団の上から撃たれて殺害されました。

 

6軒目

その後、都井睦雄は自宅の南側にある家を襲います。

家族6人とお手伝いの女性が2人の計8人が住んでいましたが、お手伝いの女性2人は睦雄と関係があり、ふたりとも猟銃で2発ずつ撃って殺害しました。

1人は脳が飛び散り、もう1人は腹から腸が飛び出ていたといいます。
最後に立ち寄った隣村の家

この後、一時間半にもおよび犯行をおこなった都井睦雄は、隣の村の家に向かい、その家で紙と鉛筆を借り、そのまま山の中へと逃走しました。

この家の子供は都井睦雄が小説を読み聞かせていた子供で、よく顔をみる知人でした。

都井睦雄は、去り際にこの子供へ「うんと勉強して偉くなれよ」と言い残して去ったといいます。

 

都井睦雄の冷静な一面

津山事件の被害者たちの証言によると「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井睦雄は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、恨んでいる家から嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲したとか、返り血を浴び異様な姿の都井睦雄に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたとか、「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井睦雄は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残してその場を立ち去ったといわれています。

最後に立ち寄った家で遺書を書くための紙と鉛筆を借りたときに、その家の子供が以前から睦雄の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子供に頼み鉛筆と紙を譲り受け「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけたといいます。

都井睦雄は、この後、山中で遺書を残して自殺しました。

 

都井睦雄の遺書 ~津山事件報告書より~

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)

 

夜這いの風習

津山事件発生からちょうど70年後にあたる2008年に当時の事件の生き残りで90代になった只友登美男にインタビューをしましたが、当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定してはいますが、姉の良子の結婚相手である隣町の只友登美男は、良子が都井睦雄と関係があったと明かしています。

都井睦雄が残した遺書にその名前が記載されいることからており、事件を決行することにした理由のひとつとして彼女の帰郷を挙げていることから、この証言については偏りがある可能性を否めません。

この証言内容については明らかに誤った内容があり、証言も含めた記事内容は信憑性の薄いものであるといわれています。

テレビ番組スーパーモーニングで津山事件の特集が組まれ、取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言しました。

 

寺井ゆり子

結局、都井睦雄は、肺結核と夜這いで自身の悪口を言った村人を順に殺害した結果となっていますが、幼馴染の寺井ゆり子は逃げ延びました。

心無い幾人かの村人からは都井睦雄が寺井ゆり子を逃がしたなどと噂され、被害を作った張本人とみる者もいたようで、貝尾村では以後70年経った現在も孤立しているといいます。

ゆり子は事件から半年余りたって嫁ぎ先で娘を出産しましたが、結婚から出産までの短さを考えると、あまりにも不自然なことなので、近所の老人たちは都井睦雄の子供ではないかと陰でささやく者もいたといいます。

また、ゆり子の夫は元々結核持ちだったのが、戦争末期に出征してすぐに兵舎で死んだと知ってゆり子は「徴兵中に夫は結核に感染し、死亡した」と申請してかなりの金額の遺族年金を受給し続けたとも噂されることになります。

都井睦雄を騙し、夫の死因を騙して生きてきてよくバチがあたらないねと噂するものもいたと古老は語っています。

ゆり子は、都井睦雄と縁を切って同じ村の丹羽卯一と結婚しましたが、都井睦雄がここでも夜這いをかけるのでわずか二ヶ月で離婚しています。

そのまた二ヵ月後にゆり子は、上賀茂村大字物見の上村岩男と再婚していて、今回の里帰りでの惨劇となったわけです。

 

津山事件は、わずか2時間足らずで28名が殺害し、5名が重軽傷(うち12時間以内に2名が死亡)の計30名を殺戮したという、犠牲者数だけで言えばオウム真理教事件の27名を上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件でした。

しかも、事件は犯人都井睦雄の逮捕にはいたらず、現場から逃走し、自殺で幕を閉じたことでこの事件には不明な点が多く残ります。

あかん店長
最期までブログを読んでいただきありがとうございます。
今後も話題のネタを提供していきますので当店で珈琲を飲みながらくつろぎのひと時をおすごしいただけたら幸いです。
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