古谷惣吉

「警察庁広域重要指定事件」という言葉をご存知でしょうか。

管轄を越えて、全国の警察組織が協力体制をとり、捜査にあたることを指定される事件のことです。
1964年に制定された後、殺人事件として初の指定を受けたのが、「古谷惣吉」のケース。
警視庁広域重要指定105号となった連続殺人事件の犠牲者は、1ヶ月ほどで8名。
さらに、立証されていないものも含めると、計12名もの人間が殺害されたと言われています。

 

古谷惣吉

別名「105号事件」とも言われる、連続殺人事件の犯人。
古谷惣吉(ふるたにそうきち)は長崎県出身で、生まれは比較的裕福な農家でした。
しかし、父親の再婚相手から虐待を受け、家を飛び出した後、道を踏み外してしまうことに。
16歳で、窃盗罪で初の収容生活を迎えた後は、出所と投獄の繰り返しの人生となります。
50歳の時点で、30年近い刑務所生活を経験。
人生の半分以上を、塀の中で過ごしていました。
性格は、粗野で自己中心、さらに短絡的であったと言われています。
1964年11月に、熊本刑務所を仮出所。
この後、殺人事件として初の警察庁広域重要指定となる、残虐な犯行を繰り広げることになります。

 

布団の下の3つの遺体

連続殺人事件の始まりは、1965年11月9日。
滋賀県大津市の水泳場の売店内で、売店の管理人(59歳・男性)の遺体が見つかったことが発端でした。

遺体は後ろ手に縛られており、布団をかぶせられた状態だったと言われています。
死後6日ほど経過しており、首に巻かれたタオルから、死因は絞殺と判断されました。
布団の下から見つかった、第1の遺体。
このとき、同じような状態の遺体が、次々と発見されることになろうとは、誰も想像していませんでした。

 

唯一の手がかり

それから2週間ほど過ぎた11月22日。
福岡県糟屋郡で、英語教師(54歳・男性)の遺体が自宅で発見されます。
死因は、刃物による刺殺。
第1の遺体と同様、布団がかぶせられた状態でした。
通報を受けた警察が、被害者の自宅を捜査したところ、現金五千円が奪われていることが判明。
この他、腕時計、ラジオ、衣類といった品物もなくなっていたことから、強盗殺人事件と断定されました。
また、犯人は現場で着替えを行ったようで、被害者の物ではない白のセーター、靴下、ズボン、シャツなどが現場に残っていました。
犯人特定につながる有力な証拠として、残されたズボンを調べたところ、信じられないことに「大沼伊勢蔵」という名前つきだったことが判明します。
犯人が、バカ正直に、自分の手がかりを残していったのでしょうか。

 

重要参考人「大沼伊勢蔵」

唯一の手がかりである名前。
該当する人物を調べたところ、前科持ちであったため、比較的簡単に身元が割れました。
窃盗罪で前科2犯。
出所後の足取りを辿ると、兵庫県神戸市で、廃品回収業をしていることが分かりました。
11月29日に、重要参考人となる「大沼伊勢蔵」を連行するため5人の刑事が自宅へ向かったところ、思いがけぬ発見をすることになります。
布団の下の第3の遺体、「大沼伊勢蔵(58歳)」は、すでにこの世の人ではなかったのです。
死後かなりの時間が経過していたと見えて、遺体はミイラ化状態。
首には、紐が巻かれていたことから、絞殺されたものと思われました。
鑑識の結果、殺害日は約1ヶ月前。
発見こそ最後であったものの、犠牲者としては、いちばん先であった可能性があります。
被害者の財布が見当たらなかったため、こちらも金目当ての殺人という線が濃厚でした。
犯人は、「大沼伊勢蔵」を殺害したのち、ズボンなどの衣類も奪い移動。
その後、福岡県で英語教師を手に掛け、「大沼伊勢蔵」のズボンを着替えたと推測されます。

 

警察庁広域重要指定105号事件

1965年に相次いで見つかった布団の下の3つの遺体。
いずれも50代の初老の男性で、発見を遅れさせる目的か、必ず布団をかぶせた状態という共通点を持ったものでした。
この段階で、警察は、同一犯による犯行という見方が浮上してきました。

1965年12月9日、殺人事件として初の広域重要事件「105号」に指定されます。

 

続く布団の下の遺体

滋賀・福岡・兵庫と続いた、初老の男性を狙った連続殺人事件は、ついに京都府まで飛び火します。
広域重要事件に指定されたことから、一人暮らしの老人の自宅を中心に、パトロールが強化されていた時期のことです。

12月11日に、京都市伏見区のバラック小屋をパトロール中の刑事が、廃品回収業の男性(60歳)の遺体を発見します。
マフラーで首を締められた遺体には、他の犠牲者と同じように、布団がかぶせられていました。
死後7~10日後と推定される遺体。
連続殺人の犯人は、古畳とテントの布で囲われた粗末な住居に住む老人までも、標的としていたのです。
さらに悪いことに、11日に発見された遺体は、ひとつだけではありませんでした。
800メートルほど離れた別のバラック小屋でも、廃品回収業仲間の男性(67歳)が、絞殺死体となっていました。
凶器となったのは電気コード。
同じく、布団をかぶせられた姿での発見でした。

立て続けに発見された2つの遺体。
鑑識の結果、死亡推定日は同じ12月3日と判断されます。
犯人は、1日に2人という驚くべき頻度で、犯行に及んでいたのです。
しかし、急ぎ働きのような犯行をしたツケか、現場に指紋を残していきました。

ここで、広域重要事件に指定されていたことが功を奏します。
京都の殺人現場から採取された指紋を手がかりに、警察の保持する指紋データと照合したところ、福岡県警のデータに一致するものがあったのです。

12月12日、指紋の持ち主は、前科8犯の「古谷惣吉(51歳)」だと判明。
すぐさま、全国指名手配されました。

 

犯行直後の古谷惣吉を逮捕

古谷が全国指名手配された当日、兵庫県警の警官が、パトロール中に古谷惣吉を逮捕。
折しも、廃品回収業の老人を中心に、見回りを強化していたときの出来事でした。

警官3人が、兵庫県西宮市に点在するバラック小屋を巡回訪問している途中、川べりの小屋内で2つの男性の遺体(69歳・51歳)を発見。
付近を警戒したところ、物陰に潜んでいた男の姿に気づきます。

ナタを手に、立ち尽くす男。
小屋内の遺体は、いずれも鈍い刃物のような凶器で頭を割られていたことから、犯人である可能性は濃厚です。
これこそが古谷惣吉でした。

古谷は、警官にナタを投げつけた隙に、きびすを返して逃走。
必死に逃げますが、当時の年齢は51歳。
初老を迎えた男に、長時間走り続ける体力はなく、あっさりと警官に取り囲まれ、御用となったのでした。

12月12日、指名手配から、わずか18時間後の同日の逮捕劇。
連続殺人事件の幕切れとしては、実にあっけないものでした。

 

被害者の総数は

逮捕後、取り調べを受けた古谷は、大阪高槻市でも、同様の殺人を犯していたことを自供します。
被害者は、建設作業員(53歳)の男性。
警察が捜査に向かうと、供述通りの場所から、ワイシャツで首を締められ、布団がかぶせられた状態で発見されました。

被害者の数を時系列にまとめると、以下のような順で、古谷が犯行に及んでいたことが分かります。
いずれも、1965年の出来事です。

遺体発見日 場所 被害者 職業
11月29日 兵庫県神戸市垂水区 大沼伊勢蔵(58歳) 廃品回収業
11月5日 大阪府高槻市 山本正治(53歳) 建設作業員
11月9日 福岡県糟屋郡 黒木善太(54歳) 英語塾教師
11月22日 滋賀県大津市 大島馬吉(59歳) 売店「柳屋」管理人
12月11日 京都府京都市伏見区 市川清治(60歳)・広垣平三郎(67歳) 両名とも廃品回収業
12月12日 兵庫県西宮市 奥村善太郎(69歳)・山本嘉太郎(51歳) 両名とも廃品回収業

1ヶ月ほどの間に計8名もの人間が、古谷の手にかかり死亡しています。
いずれも、僅かな金品などを狙っての犯行。
中には、一晩の宿や食事を断ったがために、殺された者もいたようです。
一宿一飯が、生死を分けたとも言えるかもしれません。

古谷は前科8犯。
過去にさかのぼると、被害者の数は、さらに増えることになります。

 

仲間に罪をなすりつける

1951年に古谷(当時37歳)は、2件の強盗殺人事件に関与し、逮捕されています。
この時は、単独の犯行ではなく、坂本登(20歳)という共犯者がいました。
この事件での被害者も、ひとり暮らしの老人。
福岡県の福岡市と北九州市で、それぞれ1名ずつが殺害され、少額の現金が奪われた事件でした。
殺人の実行犯は古谷、見張りは坂本と、役割分担がされていたようです。
しかし、この事件で逮捕されたのは、坂本のみでした。
古谷は逃亡に成功し、その後2年に渡って逃げ続けます。
坂本は、取り調べで「見張りをしていただけ」と主張していたにも関わらず、死刑判決を受けることに。
しかも、古谷の逃亡中に死刑は執行されてしまいます。
ある意味、古谷のもう一人の被害者だったとも言える人物です。

古谷が逮捕されたのは、死刑執行の翌年のことでした。
坂本との強盗殺人事件とは関係のない、窃盗罪での逮捕でしたが、指紋の照合から事件との関連が発覚。
このとき、見張り役であった坂本の死刑が執行されているのを良いことに、犯行のすべてをなすりつけます。
呆れたことに、「坂本が殺し、自分は見張りを手伝っただけ」と、罪をすり替え、押し通してしまうのです。
結果、死刑を免れ、懲役10年の判決で済むことに。
この後、古谷が収容されることになったのが熊本刑務所でした。
1964年に仮出所するも、引き取られた更生施設から失踪。
そして、広域重要事件105号と指定された、連続殺人事件へとつながっていくのです。
坂本との事件で罪のなすりつけが行われなければ、連続殺人そのものは起こらなかったのかもしれません。

 

空白の期間でも殺人?

熊本刑務所を仮出所した古谷が、連続殺人事件に手を染めるまでの間に、一定の空白期間が存在します。
この期間に該当する、1964年11月から1965年5月にかけても、2件の殺人事件が発生しています。
被害者は、鳥取県の老人(男性)1名と、愛媛県の老人(女性)1名。
実は、古谷に嫌疑がかけられていた事件でした。
被害者が老人であり、わずかな金銭が奪われていることなど、共通する点が多かったのです。
しかし、古谷が容疑を否認したことと、証拠が不十分であったため、不起訴に終わりました。
後の見解では、古谷の犯行であった可能性が高いとされています。

最終的に、古谷の被害者と考えられるのは、計12名。
連続殺人の8名に加えて、坂本との事件での2名、不起訴に終わった事件での2名です。
これほどの人数を殺害した犯人は、日本の犯罪史上でも類を見ないのではないでしょうか。

 

死刑が確定

古谷惣吉8件の連続殺人で起訴された、古谷惣吉への判決は、死刑。
1971年4月1日、神戸地裁にて下された判決でした。
この裁判でも古谷は、坂本登との事件同様、いるはずもない共犯者が実行した殺人だと主張。
むろん、死刑を受け入れることなく、控訴します。
検察側から「昭和刑事犯罪史上、まことに極悪非道無類」と評された古谷の主張は、受け入れられることはなく、1975年に控訴棄却。
さらに上告するも、1978年に最高裁でも上告棄却。
連続殺人犯、古谷惣吉の死刑が確定します。
古谷について驚くべき点は、収容生活を送りながらも、1982年に拘置所内で殺人未遂事件を起こしていることです。
被害者は、古谷と確執のあった死刑囚(39歳)。
ハサミで襲いかかられ、ケガを負いながら一命はとりとめました。
死刑が確定した後も、古谷の行動には、ブレがなかったことが窺えます。
死刑が執行されたのは、1958年5月31日のこと。
71歳という高齢での執行でした。

 

古谷惣吉~1ヶ月で8人を殺した連続殺人犯~ まとめ

まだシリアルキラーという言葉がなかった時代に、12名もの人間を次々と殺めた古谷惣吉。
生前に、自分の取り調べを担当だった刑事宛ての手紙で、「厚恩を背負いてのぼる老いの坂、重きにたえず涙こぼるる」という短歌を残しています。
死刑を前に、どのような心境で罪と向き合っていたのでしょうか。

 

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